終戦記念日に思うこと
写真は、先週土曜日。刈羽で子どものサッカーを眺めているときのもの。
COVID-19の日々は、「今は我慢しとけ」ということがとても多く、しかもその「これくらい当たり前」の基準がひとそれぞれで相当ちがうので、その境界線に近づくたびにびくびくしたり、いらいらしたりといったことが本当にたくさんあります。かえって「全部やめとけ」の時期よりも、今の方がそういったストレスは強いのかもしれません。
大前提としての「誰もひどいはやり病でひどい目に遭わないといいね」は全員が賛成すること。
でも、その実現のための方法はいろんな手があるわけで、そこのすりあわせでいろいろな軋轢は出てくる。
終戦記念日に思う「もう絶対戦争はいやだよね」という反戦平和もまた、おなじような面はあって、最終的な願いはみんなおなじなのだけれど、そのための手法を話していると、ある立場の人にとってはある立場のひとが「戦争を求めている」と訴える元になるし、逆から見れば「それはかえって戦争を招いている」構図を自ら招いているようにも見える。
願いと手法。そこをきちんと切り分けられないと、願いは叶わない。そして、手法の部分はきちんとどちらがいいのかを話さなければいけない。
願っているだけでは、願いは叶わないわけで。
8/15は解決の日ではなく、願いの日だと思う。だから、僕は今日は「せかいじゅうからせんそうがなくなりますように」と願います。
その願いが、いろいろなことを言う時の下敷きとして存在することは、ちゃんと言っておきたい。そう思っています。
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