2022年8月15日 (月)

終戦記念日に思うこと

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 写真は、先週土曜日。刈羽で子どものサッカーを眺めているときのもの。
 COVID-19の日々は、「今は我慢しとけ」ということがとても多く、しかもその「これくらい当たり前」の基準がひとそれぞれで相当ちがうので、その境界線に近づくたびにびくびくしたり、いらいらしたりといったことが本当にたくさんあります。かえって「全部やめとけ」の時期よりも、今の方がそういったストレスは強いのかもしれません。

 大前提としての「誰もひどいはやり病でひどい目に遭わないといいね」は全員が賛成すること。
 でも、その実現のための方法はいろんな手があるわけで、そこのすりあわせでいろいろな軋轢は出てくる。

 終戦記念日に思う「もう絶対戦争はいやだよね」という反戦平和もまた、おなじような面はあって、最終的な願いはみんなおなじなのだけれど、そのための手法を話していると、ある立場の人にとってはある立場のひとが「戦争を求めている」と訴える元になるし、逆から見れば「それはかえって戦争を招いている」構図を自ら招いているようにも見える。

 願いと手法。そこをきちんと切り分けられないと、願いは叶わない。そして、手法の部分はきちんとどちらがいいのかを話さなければいけない。
 願っているだけでは、願いは叶わないわけで。

 8/15は解決の日ではなく、願いの日だと思う。だから、僕は今日は「せかいじゅうからせんそうがなくなりますように」と願います。
 その願いが、いろいろなことを言う時の下敷きとして存在することは、ちゃんと言っておきたい。そう思っています。

2021年7月 9日 (金)

行動変容

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 今朝は、ご近所の小学校で朝読書。
 開始時間待ちに図書室にいると貸し出しカウンターに至るルートに、最近あちこちに溢れている「間隔をあけて並びましょう」の線がこんな風に設置されていました。
 離れて並ぶことを学ぶ小学校。こんなに時事を意識しながら過ごす小学校時代って、なかなかないだろうなあ。これもまたいい経験・・・とは言えないかも知れないけれど、単に無味乾燥なルールを強要するのではなく、きちんとなにか「!」を付け加えて子どもたちに伝えようとする先生方の努力は、本当にありがたく思います。

 それにしても。

 感染者は時折出るけれど、概ね縁のない生活をしていると、東京で起きていることがまるで別の国のことのように思えます。
 ベイスターズが横浜スタジアムで各所と連携してやった「満員実験」、ここしばらくのNPBとJリーグの上限1万人とか客席数の50%上限とかの食べ物・お酒も出す観戦も、それからそろそろと再開しはじめたプロが催すコンサートや芝居も。いずれもクラスターの起点にはなっていません。これは偶然ではなく、積み重ねられた知見で常にアップデートされていく対策を講じながら「でもこれは大丈夫」を確認しながら少しずつできることを広げていった結果。つまり「知見と経験に基づく科学」なのですよね。
 でもそれは「なんとなく怖いからやめない?」には抗えない。

 そうか、科学はいつでも、感情を説得できないのか。

 ただ、これが続くと、いつまでもいつまでも「なんだかわからないけどいろんなことをやめておかなきゃいけない」時期は続きます。

 理性的になろう。きちんと考えよう。
 意味のある対策を、常にアップデートしながら。

 だから「あれが無観客なんだから、これはやっちゃおかしいだろ」とか「これ中止なんだからあれもやるなよ」とか、そういうことは言わず、できることをできる形で、どうやったらできるか。そう思いながら「やる」ことを尊重しませんか?

 本当に、ほんとうに、そう願っています。

2020年10月 1日 (木)

招き入れよう

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 10/1。いよいよGO TO トラベルキャンペーンが、東京発着も除外されなくなりました。
 9月の4連休からそろそろ10日。あちこち人も溢れていましたが、そろそろ「潜伏期間」も終わりそのとき感染したひとの数が「グラフ」に載ってくる頃なのに、特に大きな山の変化はありません。
 3月の連休のときは、二週間後にけっこうな山はあったように思うけれど、当時に比べて多くの人はマスクしてるし、お店などに入るときには手指消毒するし、小学生のコドモも前よりはるかに手を洗っているし、感染症全体に対しての「対策」はまちがいなく習慣化しています。それがあらわれているのが9月のインフルエンザになったひとの数。去年同時期の1/1000くらいになっているんだそうです。
 https://tenki.jp/forecaster/t_yoshida/2020/09/28/9972.html

 もちろん、なんの対策もせずに野放図に暮らしていいというわけではないですが、異様に首都圏などから訪れるひとを拒んだり「帰省するな」といったりするのは、もうやめにしたい。そう強く思います。

 経済が大事だからとか、そういう近視眼的な話しではなく「心地よく訪れることのできない場所は、誰も愛してくれませんよ」ということ。

 きちんとしたひとたちは、ちゃんと招き入れよう。
 10/1にあらためて、そうよびかけたいと思います。

2019年9月25日 (水)

その他大勢のものがたり

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 先週末に糸魚川で催された、日本児童文学者協会の「全国大会」的なセミナーでは、卓球をテーマにした小説を多く書かれている吉野万里子さん(「チームふたり」他)と横沢彰さん(「卓球部」シリーズ他)の対談がありました。
 スポーツの物語は、ある意味達成感に共感する小説。だから、達成感のために物語が長くなればなるほど、達成できる目標が大きくなります。運動音痴な子がわずか3年で全国大会を戦うようになったりとか。
 でも、実際のトコロ世の中の多くの子どもたちは、地区大会での一勝を目指していてそれが果たせなかったり、去年は県大会に行けたけど集大成の3年生の大会では地区大会で敗退したりしながら努力しているわけです。でも、彼らに達成感がないかといえばそんなことはまったくなくて「今日はゴールキックをちゃんと高く蹴ることができた」とか、はたまた「ちゃんとサーブが相手のコートに入った」とか、ステップバイステップの小さな目標を達成して「やった!」とやっている。一足跳びにどんどんと上に登っていけるような子は、ほんの一握りですから。

 そういう「ほとんど負けてしまう」多くの子たちにとって、ごく普通の子がいろんな先輩や大人、ライバルと出会ってどんどん勝ち上がっていくインフレ物語は夢を重ねることができる反面、現実感に欠けるという面もあります。連戦連敗、なかなかうまくもならない。そんな子たちに寄り添う「連戦連敗、なかなかうまくならないけれども小さな達成感に満ちた物語」というのが、もっとあってもいいんじゃないかなあ。そんな話しを、児文協の一日目の行事が終わったあとの交歓会で、いろんな方につい力説してしまいました。確かに僕らも「仕事にいっても怒られたりうまくいかなかったりばかりでなかなかイイコトがない小説」を読んで楽しい気分になるかといえばなかなかシンドイところはあるので、こういう普段の現実に寄り添う物語がちゃんとポジティブになるというのは、なかなか難しいということは、想像がつくのですが。

 んで。

 糸魚川セミナーが終わったあと、やりとりさせていただいた作家さんの本をいろいろあらためて読んでいるワタクシですが、その中でなんとなく照れもあって手を出していなかった地元・横沢彰さんの「スウィング!」を遅ればせながら読みました。
 姫川中をモデルにした中学校を舞台に雪が消えてようやくグラウンドが使えるようになる頃からの野球部のものがたり。主人公はそのチームの四番で、一番の飛距離を誇るチーム有数の強打者…なのだけれど、この物語はおおむね、彼がいかにして田んぼと(そしてそれはつまり、根知谷の暮らしそのものと)向き合うかという部分が語られ、野球はその年「やりたいけどなかなかできない」ものとして語られます。
 当然、チームでガッツリ練習していないし、クライマックスで彼らがやらかすコトのせいもあってヘロヘロの状態で初戦に臨むことになります。競技の結果という意味でも、とても芳しくない。

 ただ、そこには「どんどん勝っていけるわけではない子たちのとてつもない達成感」が、しっかりと描かれていました。
 なんだ、あるじゃないか、すごく身近に。

 今年の春頃、「Good old boys」という本多 孝好さんの「すごく弱い少年サッカーチームの親」をテーマにした連作短編集を読んだことを思い出しました。
 結局「連戦連敗、なかなかうまくならないけれども小さな達成感に満ちた物語」というのは、僕ら競技をやっている子どもの親が、子どもたちになんとか遭遇してほしいと願う物語なのだな、と。

 もちろん、勝った方が嬉しいのは間違いないし「負けたっていいよ」と思って臨むのはちがう。でも、結果として勝てないことに親が落胆するようなことなく、競技を通してなにか小さな「あ、そうか」をいくつも見つけてくれれば。そういうことなんだな、と。

 横沢さんの「スウィング!」では、田植えまでの、その年の稲作シーズン序盤に主人公がどう関わるかがガッツリと描かれます。都市部の子に本を手渡すひとたちには「奇をてらった演出」「ありえないこと」と思われるかもしれない。でも、人数比では少なくても、日本の中の「面積比」では少なくない子どもたちにとっては、きっとこの状況は身近な、または想像できる状況なのではないかと、僕は思うのです。

 そんなわけで、今日の写真は敬意を持って、ようやく少しずつ穂に実がはいってきたウチのバケツ稲。稲刈りが進むまわりをよそに、10月末頃の収穫をめざして、がんばって成育中なのです。

2019年9月12日 (木)

天日干し

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 一時期ほとんどみなくなってしまったお米を稲架にかけての天日干し。
 最近ちょっとまた戻ってきたかなと思えば、ご近所の集落では「やるひとがいなくなったので共同作業所も閉鎖。今はウチだけしかやってない」と知り合いが言っていたりもして、やっぱり少ないんだなあと再確認。昔はあっちこっちにこの期間限定の壁があって、その中に隠れて小学生男子はほほえましい悪事を働いたモノだけどなあ(笑)。

 さて。

 台風15号の被害は長引いて、ここ何十年もちょっと記憶にない、広域の、長時間の停電などが続いているとニュースが伝えています。
 まだまだ暑い中、快適のためではなく「命のため」にもなる冷房も使えなければ、水も出ない。必要なものが変えないといったことがあって、被害に遭われた方は本当に大変で、はやく復旧することをどうにか祈っています。

 一方で。

 僕は水や電気といった本当の意味でのインフラ担当ではないけれど、仕事を動かす上での土台としてのインフラに関連しているから「止まる」ということに対しての苦しさは想像がつきます。
 確かに口では「想定外」とは言います。「仕方ない」とか「まだムリだ」も言うかもしれない。でも、そんなときはなんとか一分一秒でもはやく復旧するためにどんな手があるか、それこそ時に休みを削ったり、睡眠を削ったり、利益を度外視したりしながら悪あがきをして対応しようとする。それは、インフラに関わる人たちの矜恃であり、本能です。
 確かにすぐには復旧しないかもしれない。でも、別にサボってるわけではなく、準備が足りなすぎたわけでもなく、できる中で精一杯のことを、対応しているひとはしているはず。だから、そこには文句やクレームではなく、エールで応えてほしい。そう思うのです。

 ヒトはモチベーションによってもっと働けたりもすれば、心が折れてしまうこともある。
 だったら、モチベーションを落とすようなコトをやれば、もっと復旧は遅れるわけです。

 ヘンな評論屋みたいなことをシロウトまでみんなでやったりしないで、あっちこっちの倒木とかと戦っているひとたちをサポートしようよ。
 ここ数日のニュースを見ていての、僕の素直な気持ちは「そこ」なのです。

 今日も一日おつかれさまでした。

2019年9月10日 (火)

写真を撮る人

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 昼間、そろそろ日が傾き出す頃の今井不動滝にて。
 若い子が二人、三脚抱えていろんなアングルから不動滝を撮影していました。
 いいなあ、なんだか楽しそう。いろんなことを考えて、いろんなことを試している彼らを眺めて、僕は滝の近くにいくのをやめて、彼らがいる滝の写真を数枚撮りました。

 これからの季節、たとえば小谷の鎌池のような紅葉の名所では、対岸でカメラを構えるひとに対して「どけーー!」と叫ぶカメラマンが出没するようになります。確かに、自然は美しい。でもさ、自然の美しさは自分の手柄ではないわけで、そこを写し止めても、ほとんどの場合撮り手の手柄ではないわけです。もちろん、撮り手の工夫と訪れたマジックで、その人がそのときしか撮れないものが残ることだって当然あるのだけれど。

 ならば、名所で人とか人工的構造物とか、そういうものをできるだけ排除した写真を撮るよりは、そういうものと共存して、あるがままの「!」を写し止めていくほうが、ずっと健全だなと、僕は思ってしまうのです。

 そんなわけで、電線を入れるのが好き、見事な植物の写真に手すりを縁取りのように入れたりするのも好きなワタクシの写真は、あんまり褒めて貰うことはないものなのだけれど、それでもなお、そこを愛でているひとに対岸から「どけー」と叫ぶような、無残な輩にはならないようにしたいと思うワタクシなのです。

2019年9月 2日 (月)

大トロと中トロ

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 先週末は、カミさんの甥っ子の結婚式にいってきました。
 長時間新郎新婦がいなくなることもなければ、妙に舞台装置チックな演出もなく、ちゃんとひととひとが話すことができて、みんながにこにこしている、とても楽しい式でした。そういえば、結婚式って久しぶりだなあ。ここのところ、式服を着るのは黒いネクタイばかり。たまにはこういうの、いいよね。あらためてそんなことを思ったり。

 んで。

 新婦さんが大のジブリ好きということで、いろんなところにジブリな式でした。テーブルの真ん中には苔とかどんぐりとかをあしらってあって、都会のど真ん中の式場なのに、なんだか我々にとっては妙な地元感(笑)。そこに顔を出していたトトロの指人形を下の子がしっかりもらってきてました。小学生以下限定の争奪戦はこどもがすくなかったこともあって楽勝。ただ、大中小のトトロのウチうちで「赤身」と呼ばれているいちばんちっちゃいトトロだけはウチのテーブルになかったのでこの二つだけのようです。

 にこにこの輪にはいるってのは、なんだかいいもんですね。イガイガの輪をつくらないようにしよう。そんなわけで、今週もはじまりました。もうじき夕ゴハンの時間ですが、たのしい夕ゴハンを!。

2016年4月16日 (土)

「絵」を求めるということ

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 大きな災害があるといつも思うこと。それは「絵が必要だ」ということは、とてもとても業が深いのだなということ。
 確かに、一目瞭然の伝える力はある。でも、その絵のために現地に大量のヘリが飛び、救助現場の近くに中継車が並び、被災地の役場に押しかけて中継を繰り返し。
 それが「大変だ。これはサポートしなきゃ」という気持ちを多くの人に巻き起こし、それが復興の力になることは、わかる。
 でも、救助とかいろんな設営とか、避難とかの邪魔になるくらいヘリが飛んだり、道路を占有したり、疲れ切っているひとに強い光を向けてコメントを撮ったり。そういうことをヒトがどんどん入れ替わり立ち替わりしながら、現地の邪魔のようなことをしなければいけないのかなあ。
 ほかのおおくの土地にひとのためよりも、災害直後くらいは現地のひとのためのサポートにもっと力を割いてほしい。ラジオのように。
 そして、ラジオとテレビのどこが一番ちがうのか。それを考えると「絵が必要」ということは、本当に業の深いことなのだなあと、あらためて思ってしまうのです。

 写真は、ゴリラ公園の夜桜。
 誰も撃ち抜けなくてもいい。誰も悲しくならないような写真ならば。
 僕は、素人だから、使命感に貫かれた写真なんて撮らなくてもいいんだから。
 つくづく、そう思います。

 すこしでも多くの人が助かって、すこしでもしんどくない形で避難でき、すこしでもいい形でふつうの生活に戻れますように。みんなでできること、考えないとね。

2015年12月15日 (火)

休写日

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 週末がおわり、なんだか抜けた気持ちの月曜日。それなりに忙しかったのだけれど結局一回もカメラのシャッターを切らないうちにおわってしまいました。日帰り新潟出張の移動中は、高速道路の左右の田んぼにいっぱい白鳥がいたり、夕焼け空がとてもきれいだたり、したのだけどなあ。

 そんなわけで、唯一スマートフォンで撮ったのが移動途中のゴハン(笑)。
 一部の方には有名で、最近糸魚川でもスーパーで買えるようになった栃尾の油揚げだけど、揚げたてのコイツ1/2本を、真ん中をすっと切ってたっぷりのネギやかつおぶしと粗挽きソーセージを挟んで、オーロラソースをかけたホットドッグスタイルのもの。
 考えてみればコレ、炭水化物ダイエットしてるひとに最適のガツんとゴハンだなあ。これは、今度ウチでもやってみようかななんて思ってしまいました。

 そんなこんなで、今日からまた少しずつ日常写真にスイッチを切り替えて、スナップしていこうかなと思っています。
 おはようございます。

2015年12月13日 (日)

目が悪くなったなあ

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 とつくづく思うのは、暗い場所で撮った写真をあとで確認してみたときのピントの歩留まりの悪さ。そこそこあわせて撮っているはずなのだけれど、あとで見てみるとけっこう悲惨で、もう少し確認しながら撮ればよかったなあと後悔することしきりなのです。

 舞台を撮るとき、そして、舞台がハネたあとのみんなの笑顔を撮っているときには、自分も興奮状態だから、なんだかコマかいことはどうでもよくなっているんだろうなあ(苦笑)。
 そんなわけでオデュッセイア2は今日が二日目にして千穐楽。
 昨日の失敗を取り返すべく、がんばって撮らなきゃ。
 キャストのお友だちの方、一緒にお撮りした記念写真が、もしかしたらピンぼけでお渡しできないかもしれません。再撮影も兼ねて、もう一回見に来ませんか?(笑)。

 本日二日目。開場13:30、開演14:00です。
 https://www.facebook.com/itoigawa.odyssea/

 ぜひ。