美観を損ねると嫌うかたも多い空中に架線されてる景色としての電線。僕は、実はかなり好きです。
この線のひとつひとつが、一軒一軒の家につながっていて、そこに力を送っている。まさに、可視化された「ライフライン」。ぐっと望遠レンズで圧縮してみると、このあやとりというより投網の下みたいな線に、僕はひとの仕事を感じてしまうのだな。
たとえば、虫の声が美しいかノイズと感じるか、とおなじく、きっと感性の違いなのだろうけれど、僕は全部地中埋設とかしてしまうよりは、こちらのほうがずっといいなあと思ってしまいます。機能とか、防災面とか、そういう面からの考えではなく、純粋に「まちの外観」としてに限れば。
さて。
先日、市の教育懇談会なるものに顔を出してきて、幼稚園から高校までの一貫教育と読書を絡めたテーマのテーブルで雑談してきました。
学力をあげるための本を読めというのはクソクラエなのですが、本を読むと二次的にこんなにいいことはあるよという話はできる(このちがいは実は相当大きいと思うのですが、伝わりますでしょうか)。
僕のテーブルにはどちらかというと幼稚園・保育所の方が多かったこともあって「今の子はすぐスワイプするしぐさをする」とか「文章のお知らせを親が読んでくれない」とか、いわゆる「まわりのひとが話したり見せたりする日本語のシャワーをあまり子どもが浴びていないんじゃないか」という話が出ていました。
「ものを整理した(見せない)スマートな部屋」って、確かに子どもへの刺激が少ないだろうなあと思うことはあります。カレンダーがかけてあったり、新聞や雑誌が部屋のはしっこに落ちてたり、本棚があってテレビもなにか言ってて、そういう、なんだかわかんないけれど雑多なものが目に入ってきたり聞こえたりしてくるところにいると、感じる刺激ってのも、あるんだろうなあとか。確かに、それもアリだ。僕の仕事部屋も汚いぞ(笑)。
まあ、それは冗談にしても、ひととコミュニケートできなければ、ひとはしんどい。常にコミュニケートしなくてもいい。そういう生活もしんどいときはあると思うのだけれど、伝えたいと思ったときには伝えたいことは少しでも伝わった方がいいし、あいてが伝えたいことはちゃんと受け取れた方がいい。ならば、文章でいろいろできる力ってのは、持っててソンはないわけで。
子どもが通う田沢小学校は、昨春学校司書さんが週3日きてくれるようになって状況は激変(もちろんいい方に)しました。この流れが、どんどん進んでいくと、いいなあ。
そんなこんなでそろそろ夕ゴハンの時間帯。
みなさん、おいしい夕ゴハンを。
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