「絵」を求めるということ
大きな災害があるといつも思うこと。それは「絵が必要だ」ということは、とてもとても業が深いのだなということ。
確かに、一目瞭然の伝える力はある。でも、その絵のために現地に大量のヘリが飛び、救助現場の近くに中継車が並び、被災地の役場に押しかけて中継を繰り返し。
それが「大変だ。これはサポートしなきゃ」という気持ちを多くの人に巻き起こし、それが復興の力になることは、わかる。
でも、救助とかいろんな設営とか、避難とかの邪魔になるくらいヘリが飛んだり、道路を占有したり、疲れ切っているひとに強い光を向けてコメントを撮ったり。そういうことをヒトがどんどん入れ替わり立ち替わりしながら、現地の邪魔のようなことをしなければいけないのかなあ。
ほかのおおくの土地にひとのためよりも、災害直後くらいは現地のひとのためのサポートにもっと力を割いてほしい。ラジオのように。
そして、ラジオとテレビのどこが一番ちがうのか。それを考えると「絵が必要」ということは、本当に業の深いことなのだなあと、あらためて思ってしまうのです。
写真は、ゴリラ公園の夜桜。
誰も撃ち抜けなくてもいい。誰も悲しくならないような写真ならば。
僕は、素人だから、使命感に貫かれた写真なんて撮らなくてもいいんだから。
つくづく、そう思います。
すこしでも多くの人が助かって、すこしでもしんどくない形で避難でき、すこしでもいい形でふつうの生活に戻れますように。みんなでできること、考えないとね。
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