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2014年11月16日 (日)

視界の端に

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 今日は地域の自治会の料理教室の日。今年は広報担当を仰せつかっているので、写真を撮りに。
 そうはいっても栄養講義中はカメラを抱えていても手持ちぶさた。なので、公民館の中からぱちり、外に出てはぱちりとスナップ散歩していました。

 須沢の公民館は、敷地内に一本みごとな銀杏があります。この季節、銀杏の黄色はよくはれた日にはとても映えて、青と黄色って、似合うなあと実感するもの。なにかの史跡になるほど古い木ではないけれども、僕はとても気に入っている木なのです。
 本来なら、青空の下すっと立つコイツをきれいに撮ってみるのが王道なのだけれど、今日は公民館の中から、窓を通して撮ってみました。

 この木は、世にも珍しいほどの樹齢を重ねているわけでも、なにか特別な謂われがあるわけでもありません。ただ、ちょっと昔からあって、今に至るまでずっと立っているというだけのもの。だから、おそらくなにかの理由で切るか、切らないかという話が持ち上がったとしても、「歴史的に価値があるから」とか「生物学上貴重だから」とか、そういう観点で議論することはおそらくない。
 だったら、たとえば公民館を建て増す時に邪魔だから切っちゃおうとなるかと言えば、そんなふうにはなかなかならないんじゃないかと思う。そして、それはなぜかといえば、「いつも、暮らしの中で視界の端に入っていたから」だと思うのです。

 僕が小さい頃には、ここには保育所がありました。そして、小学校にあがってからも、このあたりはよく遊んだし、そのとき、秋になると銀杏の葉っぱを踏んでいたはずです。
 いまでも通りかかると「あ、あるなあ」と思う。桜でも愛でるように「さあ、季節になったから下にシート敷いて酒飲みながら銀杏見をやろう」というようなことはないのだけれど、ただそこにあるということが、大げさに言えば「昨日が今日につながっていて、それが明日につながっていく」という安心感のひとつの構成要素になっているのだと、つくづく思うのです。

 なんの話かといえば、これはたとえば糸魚川駅にかつてあった「赤れんが車庫」のお話です。取り壊す時、部材保存の是非を問うとき、そういう、幾多の場面で、そういう「視界の端にそれがあるということのあたりまえさを喪うときの喪失感」という観点での話は、ほとんどなかった。でも、そういう小さないくつもの要素の積み重ねが「ここは僕のまちだ」と実感するために大切な土台になっていると、僕は思う。
 だから、すべてを一切かえないようにしなきゃとは、言わない。もちろん、変わりたいことも変わっていくべきこともあるから、大切な「ここが僕らのふるさと」という構成要素でも、あえて変えてしまうことはあってもいい。

 ただ、そのとき「それでいいのかい?」ということは、きちんと向き合って考えるようにしなきゃ、あとで後悔するんじゃないか。そう思うのです。

 ぼくらのまちの「ああ、ここはぼくらの町だなあ」と感じる要素にどんなものがあるのか。それはきっと、こんなふうにいつも通り過ぎると「あ、あるな」程度にしか思わないちょっと大きな木とか、そういうものの組み合わせでできているのかもしれませんよ。

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