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手際はよいけれどもあせくらしく(せかせかして)ない。そんな仕事を見るのが好きです。マスターとか親方がそういうひとだったりすると、お茶でものみながらしばらくずっと仕事をにこにこと眺めていたりなんてのも幸せな時間。
そんなわけで、昨晩は一年に一度市内の老舗のおそばやさんのご主人が山歩きと写真の仲間で催す新そばの会に、なぜか山歩きにはいかないくせに今年もご一緒させてもらってきました。
ほんのりと酒がまわってくると、てぶれしてたり、ピントが狂ってたりするのはご愛敬。
しあわせな気分で、そばをゆでるご主人を眺めているワタクシの気分が、きっと写っているのではないかと思う。そんな一枚です。
いろりを囲んでの楽しい時間。みなさん、来年こそは春の山歩き、連れて行ってください。
昨晩のローカルニュースでは、糸魚川駅の赤れんが車庫のモニュメントの下に国鉄色のキハ52が戻ってきたことを伝える映像がたくさん流れていました。Facebookなどのタイムラインでも。
残念ながら僕は搬入中のシャッターの外にいる時間帯には見に行くことはできなかったのだけれど、それでも夜にちょこっと、雨に濡れてぴかぴかつやつやの戻ってきたヤツを眺めにいってきました。
んで。
区間表示に「糸魚川~南小谷」と書いてあるプレートを見つけたときは、なんだか不思議な感慨がありました。もともとこの区間を走っていた汽車なんだし「かつて赤煉瓦車庫があった時、この区間を走っていたこの色のコイツが、こんなふうにここに収まっていましたよ」という意味ではこれはある種の記憶の風景。でも、地震後の土砂崩れで一部区間が代替輸送になっている今は「ちゃんとまた大糸線は南小谷まで走って、そこで電車に乗り換えられるようになるよ」っていう、ある種の約束のように感じたのです。
昔の水害で大糸線の橋脚が壊れてしまったときは何年も放置されてしまって、もしかしたらこのまま廃線になっちゃうんじゃないかとさえ思いました。
それに比べると、今回は昨日(26日)から糸魚川~南小谷間の大糸北線区間は運行再開。その後落石で運転取りやめになったりもしたけれど、また今朝は復旧しているようです。
JR西日本運行情報の大糸線の情報
http://trafficinfo.westjr.co.jp/hokuriku.html
ライフラインは、つながっていること自体日々あたりまえだと思っているのだけれど、田舎町では往々にして、切れると「ほんとにもう一回要る?」という話が出てきてしまう。それだけに、ちゃんと元通りやるよっていう意思表示は、とてもうれしい。
なんだか、そんなことを思ったりした、夜のキハ52冷やかし。大糸南線側も、はやく再開できますように。
こどもの通学路になっている国道をくぐる地下道の時計が、ここのところずっとなぜか2時間くらい進んだままになっていました。
鍵がかかったケースに入っていて、ちょこっと直すというわけにはいかないのでちょっと気になりながらもそのままにしていたら、地震後はじめて通ってみるとちゃんと正しい時刻になっています。
地震直後に学校から「すぐに集まって校内を点検しましたが被害はありませんでした。こどもたちは大丈夫でしたか?」という通知メールが来て、土曜の夜、もう一杯やってのんびりしているくらいの時間帯に、先生たちはちゃんと動いてくれたのにほんとうに頭が下がる思いだったのだけれど、その後先生方や道路を維持する仕事の方かはわからないけれど、ここをチェックしてくれたひとたちもちゃんといて、そのときに直してくれたんだろうな、と。
災害はとっても悲しいことなのだけれど、災害に遭遇するとみんなが即対応で「元通りに動けるように、なんとかなるように」動き出した跡をいくつも見つけて、なんだかすごくありがたい気持ちになります。火事場泥棒的に「この混乱に乗じて」って連中よりも、はるかに「ここをなんとかしなきゃ」ってひとのほうが多い。ほんと、僕はいい国に住んでいるなあと思います。
れんがしゃこもだいぶ見えるようになってきました。
もどってくるキハ52
http://www.city.itoigawa.lg.jp/dd.aspx?menuid=6037
のお披露目会も近くあるそうですし、楽しみだなあ。
この糸魚川の赤煉瓦車庫の保存活動は、最初柏崎の旧日石柏崎工場の赤煉瓦のドラム缶塗装施設の保存活動と協力しながらやっていた時期があります。その柏崎のほうはとりあえずなんとか取り壊しを延期してもらって保存活用のためにいろいろやっていた時に中越沖地震で倒壊。その後糸魚川で行われた赤煉瓦ネットワークの全国大会で「残せるのはとてもすばらしいこと。だけど、残せなくても誰も責めないであげてください」と柏崎のみなさんが言われていたのがとても強く記憶に残っています。
http://www.asahi.com/articles/ASG4851Q6G48UOHB00F.html
(記事は、今年4月に出版された柏崎の「赤れんが棟物語」のことを伝えるものです)。
今回駅に組み込まれるにあたって、頑丈な骨組みに「張る」形でこの形が作られているだけに、今回の地震でこの三連アーチが崩れることはなかったと思うのだけれど。
そんなこんなで、親戚の法事で上京しておりましたが、今日糸魚川に戻ります。
おはようございます。
この週末は、親戚の法事で上京中。なので昨晩の地震は、スマートフォンに設定している糸魚川と東京の緊急地震速報が同時に鳴ってびっくりしました。糸魚川のは「0秒後」東京のは「45秒後」。こんなに遠くてもやってくるくらいの地震。暗くなってからだったこともあって、あまり被害情報は入ってこなくてやきもきしたものの、明るくなってきたらすこしずつ情報が入ってきているようです。
みなさんのところは大丈夫だったでしょうか。
地震直後は僕も取引先のサーバの動作チェック等をしていましたが、作業中に小学校からは「先生が集まって校内の点検をしたが大丈夫」というメールが届き、介護の仕事をやっている友人は通所者さんの安全確認の連絡をしていたり。
週末の夜。もう酒も入っている時間帯だろうに「まず安心のための仕事」に一斉に動いているのは、すごいことだなあと。あたりまえのことをあたりまえにやる。そういうことをちゃんとやる。災害があるたびに、そういう力を実感します。
そんなこんなで、今日の写真は一昨日あたりの消雪パイプ点検中通水のもの。
しばらくは余震があるかもしれないとのこと。崖に近づいたりしないよう、みなさんもくれぐれもお気を付けください。
青海のほうから駅前へと車を走らせていくと、白馬通りとの交差点のあたりで突然、建物の間のソラに「糸魚川タワー」があらわれるようになりました。
「あれ、なんだ?」と思ってまじまじと見ると、NTTのアンテナの鉄塔が修繕中でシートに覆われているんですね。いつもは素通しでそんなに目立たないけれど、足回りを全部覆ってしまうとまるでなんとかタワーのよう。かなり遠くからも見えるし、夕陽に浮かび上がったり、青空にすっくと立ったり、なんだか妙に雄々しい感じもします。
工事が終わるまでのちょっとの間だだけの眺めなのだろうけれど、いろいろ見立てて楽しんじゃおうかな、とそんなことを考えています。
それにしても、今朝はひさしぶりに朝からいい天気ですねえ。寒い朝だったけれどこれから天気もよくなりそう。そんなこんなで、おはようございます。
今年のはじめ、北関東でものすごく雪が降ったときにあらためてつくづく思ったのは、雪国って津々浦々に除雪車が配備されているなあということ。
たとえ重機がたくさんあっても「そこ」まで行くことができなければなにもできない。群馬などでは放置車両が道路にぽつりぽつりと出始めた時点で、もう人力でしか対応できない場所が続出することは決定的になったけれど、そこまで極端ではないにしろ、たまりはじめの朝に、そこまでたどり着く道を確保できなくても除雪がはじめられる体制というのは、たくさん降る町では必ず要るものなのだと思うのです(おお、必ず要るからひらがなを取ると「必要」になる(笑))。
冬休みに「自由研究」があるなら、雪国の子は地図を用意して、家の周りの重機がスタンバイしている場所に印を入れていってみると、びっくりするくらいたくさんの印を付けることになるんじゃないかと思う。この自由研究は、いつか自分自身でもやってみたいなあ。
そんなわけで、ご近所にも重機が配備されはじめました。
てっぺんだけ白い黒姫。時折降るみぞれ。冬は、もうすぐなのです。
そろそろ、高速道路のIC入り口の電光掲示板が「山間部降雪予報。冬タイヤ必要」なんて文字を表示するようになりました。
そのうち「冬タイヤ準備できてますか?」になり「冬タイヤ準備OKですよね」なんて念押しにかわっていったりするのだけれど、そういえば近所の車屋さんも、昨日はタイヤ交換が数時間待ちだったそうです。
僕も12月に入ったら、履き替えようかなあ。
晴れると窓はこんなにきれいな色だったりするのだけれど、今日も青空がのぞいていたのは朝だけ。あっという間に冷たい雨の一日になっちゃいました。
だんだん、歩いたり自転車で走り回ったり、できなくなるなあ。その分どこかで動かなきゃと思うのだけれど、なかなか。テレビ見ながら踏み台昇降でもしようかな(笑)。
今日は地域の自治会の料理教室の日。今年は広報担当を仰せつかっているので、写真を撮りに。
そうはいっても栄養講義中はカメラを抱えていても手持ちぶさた。なので、公民館の中からぱちり、外に出てはぱちりとスナップ散歩していました。
須沢の公民館は、敷地内に一本みごとな銀杏があります。この季節、銀杏の黄色はよくはれた日にはとても映えて、青と黄色って、似合うなあと実感するもの。なにかの史跡になるほど古い木ではないけれども、僕はとても気に入っている木なのです。
本来なら、青空の下すっと立つコイツをきれいに撮ってみるのが王道なのだけれど、今日は公民館の中から、窓を通して撮ってみました。
この木は、世にも珍しいほどの樹齢を重ねているわけでも、なにか特別な謂われがあるわけでもありません。ただ、ちょっと昔からあって、今に至るまでずっと立っているというだけのもの。だから、おそらくなにかの理由で切るか、切らないかという話が持ち上がったとしても、「歴史的に価値があるから」とか「生物学上貴重だから」とか、そういう観点で議論することはおそらくない。
だったら、たとえば公民館を建て増す時に邪魔だから切っちゃおうとなるかと言えば、そんなふうにはなかなかならないんじゃないかと思う。そして、それはなぜかといえば、「いつも、暮らしの中で視界の端に入っていたから」だと思うのです。
僕が小さい頃には、ここには保育所がありました。そして、小学校にあがってからも、このあたりはよく遊んだし、そのとき、秋になると銀杏の葉っぱを踏んでいたはずです。
いまでも通りかかると「あ、あるなあ」と思う。桜でも愛でるように「さあ、季節になったから下にシート敷いて酒飲みながら銀杏見をやろう」というようなことはないのだけれど、ただそこにあるということが、大げさに言えば「昨日が今日につながっていて、それが明日につながっていく」という安心感のひとつの構成要素になっているのだと、つくづく思うのです。
なんの話かといえば、これはたとえば糸魚川駅にかつてあった「赤れんが車庫」のお話です。取り壊す時、部材保存の是非を問うとき、そういう、幾多の場面で、そういう「視界の端にそれがあるということのあたりまえさを喪うときの喪失感」という観点での話は、ほとんどなかった。でも、そういう小さないくつもの要素の積み重ねが「ここは僕のまちだ」と実感するために大切な土台になっていると、僕は思う。
だから、すべてを一切かえないようにしなきゃとは、言わない。もちろん、変わりたいことも変わっていくべきこともあるから、大切な「ここが僕らのふるさと」という構成要素でも、あえて変えてしまうことはあってもいい。
ただ、そのとき「それでいいのかい?」ということは、きちんと向き合って考えるようにしなきゃ、あとで後悔するんじゃないか。そう思うのです。
ぼくらのまちの「ああ、ここはぼくらの町だなあ」と感じる要素にどんなものがあるのか。それはきっと、こんなふうにいつも通り過ぎると「あ、あるな」程度にしか思わないちょっと大きな木とか、そういうものの組み合わせでできているのかもしれませんよ。
今日と明日の二日間、きらら青海入り口のアトリウムのところでは、市内の小中学校の子たちの絵や工作などの作品が展示されています。
確か去年は、その絵の中に大好きな絵本「ほげちゃん」が登場してちょっとうれしかったのだけれど、今年うれしかったのは、「お気に入りの図書室」という絵が何点か、しかもちがう学校・ちがう学年の子が描いたものが展示されていたこと。
先日、児童文学の評論家で、こどもが本を見つけやすく図書館の児童書コーナーの配置や展示を生まれ変わらせる手法で定評がある赤木かん子さんが、ご自身のブログでこんなことを書かれていました。
http://www.akagikanko.jp/modules/news/article.php?storyid=1253
ちっちゃい子とひとりで向き合わなきゃいけない若いおとうさんおかあさんが、たとえばタブレットの動画や動きの派手なあそびでこどもとの時間を「つぶす」ことができると気づいてしまったら、疲れていればいるほどそういう方向にいっちゃうかもしれない。
一緒に本を読むのは、とても楽しいことなのだけれど、たとえばおなじ本を何十回も何百回も読まされたりするように、大人にとっては飽きてしまったり、時にシンドイこともやっぱりあるだけに。
でも、そういう体験がないと、本と出会うきっかけがうまくつかめないうちに大きくなってしまう子が増えていくかもしれない。だから、もっともっとおせっかいでも読んでよというのがコラムから伝わってくる悲痛なまでの願い。なにも、教訓めいたものでなくても、勉強にならなくてもいいのだから。
そういう意味では、図書館の前の空間に、図書館が大切だという子の絵がいくつも飾られているのは、しあわせな風景でした。
図書室や図書館が、いろんな意味で冒険したり、逃げ込んだり(もちろん、学んだり、もアリですが)、そういういろんな場所として、こどもたちの近いところにあるといいな。
そんなことをあらためて思った児童作品展なのでありました。
こどもが週末に、市のイベントでまがたまづくりとうどん打ち体験を楽しんできました。
このまがたまは滑石を紙やすりで削って形を作ったんだとか。きれいな色だねえって作ってきた子どもに聞いたら、蛍光ペンで塗って磨いたんだとか。
こういうしっとりした質感と蛍光ペンってどこかつながらなくて、不思議な感じがしました。こういうあたりも、美術の授業に縁のなかったコンプレックスなのかも(笑)。
糸魚川の石ははるか遠くに運ばれて、たとえば鹿児島の鹿屋市でも出ているから、そこでも勾玉作りイベントがあったりするんだそうで(リンク先は鹿屋市立図書館の「図書館まつり」での体験の様子です)
https://www.facebook.com/kanoyalibrary/posts/692431210803490
だとすると、そういう勾玉が出土したまちと糸魚川で、こどもたちがつくった勾玉を交換したりする交流なんてのができるのも、いいなあなんて思ったり。
今、車とかで行くにしても気が遠くなるくらい遠いまちに、歩いてしか持って行けなかった時代にものが届いているなんて、とんでもなくすごいこと。そんな想像ができる体験って、なんだか貴重だなあと思う。きっともう少し大きくなって、旅した先でヒスイに出会うと、そんなことを子どもたちも後追いで実感していくのだろうな。そんなことを思ったりもする僕なのです。
今日は仕事で福井。
ついでに、彼の地のギャラリーカフェで開催中の木村太亮さんのワークショップで、僕もひとつイキモノを作ってきました。
このワークショップは、いろんな色とパターンが印刷された紙を一枚選び、自分でちぎって形を作るところからはじまります。
そして、そこに木村さんが「目は大きい?、小さい?」「口は大きい?、小さい?」と質問しながら口と目の穴をあけ、さらに色紙で目を作って仮止めして「目の場所決めて」。僕が目を指でぐりぐりしながら動かしているウチにこの形は魚になることになって、ひれのような形に切った紙も仮止め。「これも動くから場所決めてね」
そのあとは、彼が内側にだけナイフを入れてどんどん紙を切っていき、とにかくなにかのイキモノに化けさせる。そんなワークショップ。この間、彼は僕らが切った紙のアウトラインには一切手を入れません。参加者が切った紙の形が、そのままなにかのイキモノになる。そんなマジックを、紙の形を決めた張本人が目の前でにこにこしながら眺めているうちに、できあがったものには僕と木村さんの名前が並んで入り、額に入っちゃう。
僕は、美術の授業が嫌いで嫌いで仕方がありませんでした。絵をかけばなにを描いてるかわかんないものができちゃうし、デザインめいたものもなんだかうまくいかない。今はなんでか写真なんか撮ってるけど、それにしても勘所を押さえるようなことはいまだにとっても苦手なのです。
それだけに、自分が形を決めて、自分の手でびりびり破ったものが、なんだか額に入った「作品」になっちゃった。それは新鮮な驚きであり、感動でした。
彼がワークショップをやっているのを見たことはあったのだけれど、自分がやってもらうと、なんだか全然この「!」度が、ちがうんだよなあとあらためて実感。
来年、糸魚川にも来ていただこうといろいろ画策しているのだけれど、もしかしたら実現できそう?という感じになってきました。こういう「!」は、ぜひウチの子にも、そしてまわりの子にもしてもらいたいし、そのお父さん、おかあさんたち、僕みたいに「美術がすごく苦手だった」昔のコドモにも、遭遇してもらいたいと思うのです。
会場のギャラリーカフェも、いごこちのよい場所でした。
福井・越前市へいかれる方はぜひ、こちらへも。
http://gunjo-cafe.com/
ここのコーヒーは、ウマいですよ。
赤煉瓦ネットワークという団体があります。
全国にある赤煉瓦で作った建物、近代史跡などをいとおしく思い、可能であればいい形で保存したいと願う各所の団体の連絡会。糸魚川の赤れんが車庫を保存したいと頑張っていた「糸魚川煉瓦車庫保存活用研究会」もメンバーになっていて、2009年11月には糸魚川で全国大会もやっていただきました。
そして、今年の全国大会は「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産になり、また富岡製糸場内の3つの赤煉瓦の建物が国宝に内定したばかりという富岡市。研究会の主要メンバーさんたちは毎年顔を出している全国大会ですが、当時広報おてつだいとしてちょこっと関わっていた僕も、今回は参加させてもらっちゃいました。
15年前の大会のときには、週末sなのに製糸場の見学もほとんど貸し切り状態だったのだそうです。そして、夜歩いてみるとふらっと呑みに入るお店を探すのも苦労するような、糸魚川よりももしかしたらずっと「シャッター通り」かもしれない繁華街。だけれども、昼間歩くと多くの訪れたひとをもてなして、いろんなひとの笑顔がある、裏通りをふらっと歩いていても製糸場にたどり着けるようにあっちこっちに手作りの地図や看板がある、製糸場以外にもある古くからの煉瓦造りの倉庫や、煉瓦造りではないけれどちょっとかわった形の古くからのお店の説明のプレートがある、外国の人も使える公衆WiFiがある・・・。
決して賑やかだったり活気にあふれていたりしたわけではないまちが、チャンスを得てできることをできる範囲で、精一杯やろうとしているのがひしひしと伝わってくる。それがなんだかとっても心強くて、勇気づけられたまちさんぽでした。
本題の大会では、たとえば富岡製糸場に当初設置された機械類が外国から船で横浜まで運ばれたあと、どうやって群馬の山奥まで運ばれたのかという輸送方法がまだ解明されていないことや、輸出商標に刷られた恩賜の扇子の図案や明治時代の商標を扱う法律の成立時期から「この商標は最初から使われたものではないことがわかった。ならばいつから?」というような疑問、製糸場がおおむねできあがった頃から群馬県など周辺で急に煉瓦工場がたくさんできていき、そこで作られた煉瓦がどう使われていくのかといった産業歴史のことなど、故郷の今につながるいろんなことを、もっと知りたい、きちんと調べたいというひとたちのパワーに圧倒されました。
地元に建っている建物の煉瓦が地元で焼かれたかどうかなんて、まったくもってどうでもいいことに妙にこだわる人たちもいたけれど、そうではなく、このまちがどういう日々を過ごしてきたかに思いをはせるということが、このまちにちからをくれるということを、もっともっと多くの人に実感してほしいなとあらためて思った富岡行きなのでした。
んで。
写真は、朝出かける前に糸魚川駅の工事現場で運転席から撮った一枚。
ほんとうに、メイン道路の真っ正面に、コイツは建つことになったんだなあ。
というほどではないのだけれど、ほどよくお酒がまわると、撮った写真はどれもこれも、モノの見事にピンぼけだったり手ぶれだったり。
でもまあ、それもまた「おいしかった」の現れということで、悔やまずにシアワセな気持ちになろうと思います。
というわけで、昨日は年の一度のお楽しみ、市内5つの酒蔵のお酒を楽しむ会でした。
あまり市内の蔵では見ない、微発泡うすにごりや無濾過のお酒があったり、県内で戦前は作られていたもののほとんど見かけなくなってしまった酒米「白藤」を復活させたお米で醸したお酒があったり。日頃なかなか呑まない各蔵の大吟の呑み比べなどもできて、なかなか楽しい夜でした。
地元のお酒は、ウマいなあ。そう実感すると、年末年始に帰ってきたり遊びに来たりした人へ勧めるのも力が入るというもの。やっぱり、「ぼくのまち」のいいところに浸るのは、楽しい。いい夜でした。
そんなわけで、みなさんもおいしい日本酒、ぜひお楽しみください。
ずっと、早川はあまり縁のない土地でした。せいぜいが、月不見の池くらいまで。その上にはあまり上がることがなかったのだけれど、ひょんなことから、市内の怪しい文具屋さんや茨城の怪しいオヤジさんを通じて、早川谷の行き止まりあたりで働くダンディなオヤジさんと縁が繋がり、時々通りかかるようになりました。
そうなれば、いろんな意味で魅力的な場所。いろいろ教えてもらいながら、時には写真を撮ったりもして。雪の降る場所につけられた「寒い谷」という地名なんて、ゆっくり歩いてみなければきっと気づくこともなかったはず。
僕は、家では兄弟の一番上だったからか、妙に先輩願望というか、兄貴願望というか、そういうものがあります。わかりやすい優しさとか、妙な親切さは要らない。ぶっきらぼうで、愛想悪くてもいい。でもなんだか妙に信じられる。そういう空気を醸し出す大人に、もう40代も半ばになってなおコドモのように憧れる僕なのです。あんな大人になりたい。そんなこと言ってるようなトシでは、既にないのだけれどね。
今朝早く知らされた訃報には、本当にびっくりしました。切ない気持ちになりました。
誰を見送るのも切ないけれど、一人で勝手に「アニキだなあ」と思っていたヒトを見送るのは、ほんとうに切ない。
病気で亡くなる方は、みんな最後に戦う。だから、気持ちとしては、本当に、本当に、「お疲れ様」なのです。
毎年鮭の遡上の時期にやながかけられる海川に、今年はやながかかっていません。
ならばラクラクのぼっていけるかといえば、水量が少ないときは浅すぎるし、多いときは強い流れに抗えないしで、鮭にとってはやはり遡上はキツいもののようです。
でも、のぼっていくんだな。
毎年、この風景を見るたびに、ぼくはヒトでよかったなあと思う。
コイツら、こんな思いまでしてコドモを残しても、そのコドモに会うことできないんだものね。僕らは、イキモノとしては珍しい部類の、ずいぶんとコドモが大きくなるまでに立ち会うことができる可能性のある種族。ならば、きっちりこどもと向き合って、ちゃんと子育てしたいなと、そんなことを思う秋なのです。
一日冷たい雨が降る文化の日だったけれど、ときおり覗く晴れ間はなかなかきれいでした。
ぎんなんの実がいっぱい落ちている旧青海中学校グランド入り口あたりの銀杏。
ぷちぷちと踏むとニオイがぷうんと広がる、そんなきらら青海の駐車場から、ビー玉の向こうに黒姫山をのぞきこんでみました。
最近、ご近所でコドモがBB弾を撃つ鉄砲のおもちゃで遊んでるのを見かけることはあまりなくなって久しいけれど、そのかわりちっちゃい子がBB弾を宝探し感覚で草むらで探しているのはよく見かけます。コドモって、なんでも遊びにしちゃうんだなあ(そして、あたりまえのことだけれど、BB弾って消えてなくならないんだなあ)。
僕らがちっちゃい頃は、こんな風にビー玉で「あ、逆さまに見える」って発見するのも、遊びの一つだったっけ。
そんなわけで、最近時折レンズのアタマにビー玉をつけて遊んでいます。
チップスターの筒をつけたカメラで写真を撮っている怪しいオヤジを見ても、笑わないでくださいね(笑)。
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