なんにでもその人のやりかたはあって、みんなちがうのだなあと思ったのは、昨日のお昼頃、鮎釣りのひとたちを冷やかしながら海川の堤防道路を時のこと。
そろそろ黄金色に色づいてきた田んぼもあれば、まだもちょっとはやいところもある。そして、お隣同士の田んぼでも、こんなふうに畦の草をどうするかだって、全然ちがったりするわけです。
それぞれに作り方、育て方があって、それぞれに仕事しているんだなあと、そんなことを思ったお昼時なのです。
さて。
そろそろネットに接していない人にも、テレビを通じてアイスバケットチャレンジという 難病ALS の周知と募金のための試みが伝わり始めました。ここまで広がってくると、ある種の「不幸の手紙」のようにもなってきて、そろそろこの試みをどううまく収束させるかというフェーズに入っているようです。
誰かが誰かに誠実に「この問題のことを知ってほしい。そして考えてほしい」と伝えても、伝わる相手はそれほど多くない。ならば、こういうゲームめいたことを著名人が連続してやるということを通じて、大きな啓発にしたい。いわゆるセレブ層がチャリティをやることを名誉としてとらえるアメリカならではという部分にうまく乗っかったこういうPRはなかなかウマいやり方だなと僕は思いました。
もちろん、丁寧に周知するのに比べて、枝葉の部分に乗っかるヒトも出てくれば悪ふざけも出てくる。目的は「誰かに氷水をかぶらせること」ではなくて「誰かが氷水をかぶるニュースとともにALSのことが知られること」なのだから、たとえばSamsungが自社のスマートフォンに氷水をかぶせて「つぎはiphoneにチャレンジしてもらおう」なんて指名するような趣味の悪いただ乗りはアタマに来るけれど、全体としては「それも折り込み済み」だとは思うのです。
だから、今だんだんと出てきた「不幸の手紙」のような手触り。つまり「断ったり自分で止めたりするのは、なんだか気持ち悪い」という状況は、ちょっと悲しいな、と。
募金も、氷水も、誰かに伝えることもやめることも。そのすべては「人それぞれ」。
そして、それを誰かに「それでいいんだよ」と言ってもらわないとそうできないのではなく、自分で(もちろん、ALSのことも)考えて決めるということ。そういう重さも含めて、それでもなお「人それぞれ」であればいいなと思います。
田んぼだって、ひととちがう作り方をするとき、それが増収とか大幅な品質の向上だとは、はたまた減収・品質低下を招いたとしても、それもそれで「人それぞれ」だものなあ。そんな小難しいことを、一本の畝をはさんで全然ちがう見かけの田んぼを眺めながら思った僕なのでありました。
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