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2011年8月13日 (土)

迎え火・送り火

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 ウチは真宗ということもあって、お盆に迎え火や送り火を焚いたりすることはありませんが、この時期になると、岐阜提灯を出して、ちょっとだけお仏壇のまわりをにぎやかにします。

 この時期には「かえるのうらめしやさん」なんて絵本を土よう子ども会で読みたくなったりもしますし、やっぱり、ふと振り返ったり、思い出したり。そんな時間なのかもしれない。そういう意味では、お盆に火を焚くということは、ごくごく個人的な願いや、祈りや、そういったことなのだとも思うのです。

 京都で東北の被災松を使って大文字焼きをやろうとして、二転三転したニュースが伝えられています。
 東北の松を焚きたくないという声に使うのをやめてしまったという話しに「酷いな」と最初は思いました。でも、いろんな声が京都を非難するに従って、だんだんと「これは、酷いのではなく、悲しい話しなのだな」と思うようになったのです。

 確かに、大文字焼きは観光行事だし、大イベントだと思う。でも、根本はおなじ、宗教行事。つまり、多くの人が、その火を眺めながら、いろんなことを思う、そんな、ごくごく個人的な祈りの時間を作る行事なのだと思うのです。だからこそ、悼んだり、振り返ったり、思いを馳せたり。そういうことへのひっかかりになるようなことをあえて増やすことは、歓迎すべきことではないとも思う。これは、リクツとか善悪ではなく、もう感覚的なものだから、あえて気持ちを乱すなにかを持ち込むことに違和感を持つ人がいるということは、非難してはいけないような気もするのです。

 結局のところ、そういうセンシティブなものに、安易なボランティア精神を持ち込んだ粗忽な人は責められなければいけないかもしれないけれど、それも、鎮魂したいという願いがあってこそ。
 いい人たちが集まって、空回りした。だとすれば、それは、「酷い」ことではなく、ただただ「悲しい」ことなのだろうと。

 今年の夏は、鎮魂の夏だと思う。だから、ただただ静かに悼み、送りたい。断罪も非難も要らない。そういうことで、いいのではないか。そんなふうに思うのです。

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