他力
ウチが檀家になっているお寺の、先代の住職さんとお話するのが、実はけっこう好きな僕です。というのも、宗教としての仏教にはあまり興味がないのだけれど、哲学的な学問としての仏教というものには、とても興味を感じてしまうから。
たとえば今話題の「天地人」のような時代の小説が好きな人は、なぜ当時の「若者」が禅の思想に興味を持ったのかといったことに興味を持つひともいるかもしれない。
そして、儀式や、決まり事としての宗教ではない、自分を深く省みたり考えたりする上での、ひとつの指針としての、禅というものが、おそらくはあったのではないかと想像してみたりするのです。
・・・話がずいぶんと大げさになりましたが(笑)。
さて。今日港を通ると、舳先に榊を飾っている漁船がいくつもありました。
漁師さんは、こういうことを季節季節できっちりやるひとが多い。それは、普通に日々繰り返している仕事でも、ひとつ間違うと命にかかわるからなのかな。そんな気もします。
もちろん、安全のために、やるべきことはきっちりやっている。目をつぶって神頼みでの無理なんか、やらかさない。そういう、「きっちり」があるのであれば、さらに神様に祈ることなんて、しなくてもいいんじゃないか。そんなふうにずっと思ってきたのだけれど、ここ数年、これは、「やることは全部やりました。だから、ちゃんと守ってくださいね」という、ある意味「人事を尽くして天命を待つ」といったことの意思表示なのかなという気もしてきています。
それは、くだんの先住さんが法話で言う「他力本願の『他力』」にも通じるものが、確かにある。
今年は、仕事面ではホントしんどい年でした。そして、来年もあまりいい兆しが見えない年でもあります。でも、腐っててもしょうがないんだよね。ちゃんときちんと船を磨き、榊を舳先に据えて、よい来年を祈る漁師さんのように、やることをきっちりやって、人事は尽くしたと胸を張れるようにしてれば、天命は・・・もしかしたら待つ甲斐もあるのかもしれない。
なんだか、年末にいいものを見たな。そんな気がしています。
というわけで、つたない文章と上達しない写真につきあってくださったみなさま、今年もありがとうございました。来年も、よろしくお願いします。いいお年をお迎えください。
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