昨日、10/6に僕は、明治神宮野球場にいました。この日は、東京ヤクルトvs中日の最終戦。そして、古田敦也選手兼任監督の、ラス前の試合。この翌日が、本拠地神宮での最後の試合になる。そんな夜です。
僕は、三塁側の内野スタンドに陣取り、古田の相手チーム(つまり、中日)の応援をしながら、いろんなことを思い出していました。彼は、ある意味「日本シリーズ」を守ってくれた立役者でもあります。
近鉄とオリックスが合併して、一つの球団になる。あわよくば、もう一つの合併もやって、10球団での一リーグ制にして、縮小気味のマーケットでの顧客の争奪戦争を緩和する。ビジネスモデルとしては、その考え方は、正しいかもしれない。けれど、そのビジネスを支える、「ファンがなぜ、そのチームを好きなのか」という部分への視点がない。
ファンは、単にハイレベルのプレイが見られることだけに執着しているわけではありません。小さいときに最初に買った野球帽がそこだから。最初に見たゲームがそのチームだから。野球を教えてくれた近所のオヤジがそこのファンだったから。その他数多くの、人にとってはどうでもいい些細な、しかしその人によってはかなり大切な思い出があり、その積み重ねで「僕は○○のファンだ」と言うことになる。阪神があれだけ弱い時期を過ごしてもファンが離れなかった。でも、誰も弱い、下手な選手のヘボなゲーム(だけ)が好きなんてことは、おそらくない。その人の中での長い間の積み重ねが、多少の弱さヘボさとは無縁の気持ちになっている。
そういう、ひとりひとりの思い(もしかしたら、「思いこみ」や「錯覚」かもしれないくらいの)の積み重ねが、結果として、そのチームの付加価値を高めている。だとすれば、そういうファンの思い(込み)を無視したら、結果として、チームの付加価値、たとえば「そのチームのことに対して、いくらならお金を払える」という金銭的なメリットさえも小さくしてしまうかもしれない。そういうリスクに対して、プロ野球の経営陣はあまり危機感を持っていなかった。
そして、プレイヤーも、ファンも、そういう思い入れのことを、きちんとわかっていた。ただ、それをきちんとした動きにするためには、古田という旗が必要だったのだと思う。だからこそ、彼には、おつかれさまと言いたい。本当に、感謝したいのです。
でも、思うのです。
「ぼくのまち」だって、近所の複数のまちを目の前にいくつも並べて、「すべてのしがらみがなかったら、どれ選ぶ?」って問われたら、もしかしたら選ばないかもしれない、他にくらべて魅力やメリットに欠けるまちなのかもしれない。けれど、僕はこのまちのことが大好きだし、他へ行くことはよほどのことがなければないと思う。それは、生活のこともあるけれど、一番大きいのは、いままで積み重ねてきた、この町への思いなんだろうな、と。その思いはおそらくは、他の人には理解が得られにくい、ある種の「幻想」なのだと思う。好きなプロ野球チームへの思いと同じように。
ならば、同じように、そういった「幻想」を、きちんとした付加価値なのだと認識して、減らさないように育てていくというのは、地域の魅力のために、案外と大切なことではないかとも思うのです。忘れられない風景は、案外と取るに足らない風景なのかもしれない。でも、そういったものが、幻想を補強して、結果として、目に見えない付加価値を作り出している。そして、その付加価値は、案外とあらためては得ることが難しいものなのかもしれないのですから。
写真は、彼の最後のホームインシーン。後ろの席にいた、不本意ながら3塁側に座っていたスワローズファンの人の「この写真欲しいです」のリクエストにお答えして、今日は「ぼくのまち」の写真ではない一枚を。うまくここを見つけてくれるといいんですが。
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