もったいない
糸魚川駅の改札口を抜けたところの丸い柱を見上げてみたことがありますか?。
今なら「3月18日ダイヤ改正!。禁煙車が増えました」といった、喫煙者泣かせのポスターが貼られている駅一番のPRポスターの場所の一番上、天井のあたりだけ、さりげなく、レンガをあしらったデザインになっています。
どこにでもある田舎駅。それが糸魚川。でも、なにかを見て「あぁ、糸魚川に来たなぁ」と感じさせてくれるものがあればあるだけ、僕らのまちへの愛着は、自信を持ったものになります。よく田舎の人がいう「こんななにもないまちに・・・」といったせりふは、まちへの自信や愛着のなさだとは思わないけれど、それをうまく他の土地の人に伝えられない、裏打ち感のなさではあるようにも思うのです。
だから、この駅には、大きな勾玉のオブジェがある。市内の華道のみなさんががんばって生けてくれている花がある。そして、こんなところにも「ここにしかないもの」として、レンガのイメージがあしらわれている。確かに、赤煉瓦の三連線路を引き込んだ、現役検修庫もまた、いまとなってはここにしか残っていないものですから。
僕は、このレンガ車庫は残ったらいいなぁと願って、微力ながら保存に向けてのお手伝いをしている一人です。でも、一方で、こう思うこともあるのです。
たとえば(たとえば、ですよ)この建物を残すすべがないとか、残す必要がないと考えていたとしてもなお、「ここにしかないもの」は、使い道はあるのではないかと。「もう今しかみられない!」みたいな煽り方で、最後の人集めをする観光イベントは、全国にも山のようにあります。
そんな刹那的なPRじゃなくても、去りゆくものを惜しんだり、懐かしんだりすることは、いくらでもできるはず。
それなのに、なぜ、このまちは、この建物をまるで最初からなかったかのように取り扱ってしまうのか。
残す、残さない以前に、なによりそれが、僕にとっては「もったいない」と感じてしまうのです。だって、コイツは鉄道が敷かれた最初の頃からここにあって、今なおここにあり、しかもしっかり働いているわけですから。
そういう意味では、この柱の上のワンポイントに、この建物を今業務で使い、やがて業務として見送らなければならない駅の人たちの心意気を感じてしまうのです。
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