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2006年11月12日 (日)

つづいているということの安心感

Img_6924  理系の学者さんの話を聞くのが、好きです。もちろん、なに言ってるかわけわからないような、日本語能力の欠如した人は別ですが、話の上手な学者さんというのは、我々なら、ふつうに「これって、こうなんだよなぁ」という皮膚感覚的な話題で終わってしまうものに、なにかテクニカルなリクツをくっつけて説明してくれる。やっぱり、学者さんというのは、「なぜそうなるのか」をきちんと説明できるということが研究でもあるわけで、(時にはそれが、難しい言葉で単に煙に巻くだけなこともあるけれど)、やっぱり、違うなぁと。

 昨日、11/11は、ヒスイ王国館で、「赤れんがフォーラム」なるイベントがありました。藤森照信さんの講演が主体のこのイベント、演壇のところに椅子をおいて、水ものまずに時折頬杖などつきながら、この先生、話すこと話すこと。

 そもそも、明治維新からの時代変化とともに、古い建物がどのようなニーズから保存されようとしてきたのかを説明しながら、だんだんと時代が下るにしたがって、「なぜこの建物を保存したいのか」という理由付けがかわってきたことについてお話。

 そして、今の時代は、私が大切に思ってきたこの建物を喪うのが辛いというような、ごくごく私的な思いから、建物を保存したいという活動をする人たちが出てきたということ。こういったことを思う人は今までもいたけれど、それを胸の中にしまい込まずに、きちんと人に対して伝え、動く人が出てきたということ。それにはじめて遭遇したときは、驚いたということまで、話をされます。

 ただ、そこで終わらないのが、学者さんのお話。
 なぜ、今までずっとあったものがなくなると、悲しくなるのか。それは、昔からずっと目にしてきた風景というのは、そのころから今に至るまでの時間の連続性を自分自身に認識させる機能があるからではないか。夜寝て、朝起きたとき、昨日の続きなんだということがきちんと認識できるのは、回りの風景が変わっていないから。それと同じように、回りの風景がかわらないということが、自分が生きていく中で、過去から現在、そして未来に続く時間の中で、自分自身の存在の確かさを補強するための、根拠になっている。それが、単に「思い」というものだけではなく、脳の機能として、回りの(かわらない)風景から、そういうものを感じるというものがあるのではないか。

 懐かしさを感じるという、人間だけが持つ脳の機能は、そのまま、自らの存在意義や自己確立のための根拠の一つ。だから、ずっと大切にしてきた風景が突然喪われるということに対して、心が痛むのも、自らの存在意義や自己確立を脅かされるような、ある種「脳へのストレス」への、自己防御本能なのかもしれないな。そんなことを思いながら、先生のお話を聞いていた僕なのでした。

 いやはや、うまく説明できないのがもどかしいです。

 ほぼ2時間しゃべりっぱなしで、さいごにゴクンと一回だけ水を飲み干した藤森先生。また、機会があれば、ぜひ糸魚川へ。

 

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コメント

難しい話は分からないけれど、いままでそこにあったものがなくなってしまうのは寂しいものです。

この前久しぶりにバスに乗ったときに、私が通っていた保育園の建物が更地になっているのに気づきました。
卒園してから、ずぅっとその場所にあったものだから、なんとなく寂しく感じました。

小学校の時に校舎が建て変わったときも、工事の塀の隙間から旧校舎を見て、寂しいなぁと思いました。

「なぜ、今までずっとあったものがなくなると、悲しくなるのか」にちょっと反応して書いてみました。
いままであったものがなくなると悲しくなるのは、無機質なものに心の中で命を吹き込んでいるからなのかも知れないですね。

 コメントどうもありがとう。第一号ですね(笑)。
 僕が通った学校は、中学校が取り壊され、小学校も今年建て替えられました。中学校の取り壊しの時には、仕事で午前に通った時にはまだあって、夕方その道を戻ってきたら、すでに瓦礫になってた。これは、ちょっと夕飯が食えないくらいのショックでした。
 ただ、それに対して、なんで壊しちゃいけないのかを語るのって、単なるヘタレというか、ノスタルジアに固執してなんにも町のことを考えない、コドモな人なんだって思うところがあって、口に出せなかった。だから、「壊すな」じゃなくて「悲しい」だけだった。
 この日の話は、その悲しさが、個人的な感情だけではなく、人間が自身の存在確認をする上での大切な機能として、かわらないである大きな構造物を指標にするというものを持っていて、指標が失われることによる自家中毒症状として、悲しさを感じるのではないかという「仮説」を提示してくれることで、単に「悲しい」という感情を持っていた僕に「その感情を持つことは、決して間違いではない」と教えてくれた、有意義なものでした。
 もちろん、だからといってなんでも残しておくのが正しいわけではないし、壊すときは壊さなければいけないのだけれど、そういう視点も、個人的なものとして内にしまい込むのではなく、正当なものの一つとして(たとえ、影響力としては弱くても)検討に加えても、いいんだ。それが、うれしかったのです。
 駄文と駄写真ばかりのブログですが、またぜひ、読んでやってくださいな。

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