トップページ | 2006年12月 »

2006年11月30日 (木)

信州の海

Img_7021_1280  実はあまり知られていないことだと思いますが、糸魚川の一部地域は、新潟県なのに、長野県の地方紙、信濃毎日新聞の宅配が可能なエリアです。新潟における新潟日報みたいな新聞ですね。うちは家人が一人、長野に単身赴任している関係で、購読しています。おそらく、姫川温泉隣接エリア以外の市内で、宅配してもらっている一般家庭はウチだけなんじゃないでしょうか(笑)。

 長野の人は海や魚に対しての執念がものすごく、7月の海開きの時には、信毎にも「『信州の海』きょうから」なんて見出しが、広告特集ではなくて、本紙記事に打たれたりするくらい。それを見て、おもわず苦笑いしてしまうのですが、確かに土日の姫川港は、もう松本ナンバーと長野ナンバーばかり。みなさん、来てくれてありがとう。

 港は、2004年の改正SOLAS条約の発効に伴って、フェンスができたり今まで有名無実だった立ち入り禁止規制が強化されたりして、入れない場所も増えたのだけれど、それでもまだ姫川港は直江津港や新潟西港・東港にくらべればずっと規制がゆるく、釣りを楽しむ人も多い感じがします。

 写真は、姫川港でも条約による規制を受けていない漁港側。カモメがのんびりうろうろしていく横で、たくさんのひとが竿を出している。そして、その後ろをでっかい船が荷物満載で出て行く。こういう光景は、田舎の拠点港ならではものなんでしょうね。

 さて、「信州の海」のおはなし。
 上にも書いたように、家人が長野に単身赴任している関係で、よく長野県にもいくのだけれど、スーパーをのぞくと、不思議に思います。糸魚川に来る長野県の人というと、長野市周辺と松本市周辺の人が大多数だと思うのだけれど、長野のスーパーは、どこもおしなべて魚の品揃えが悪く、あんまり魚食べようって気分にさせてくれない。でも、R148沿いの白馬~松本にかけてのスーパーは、けっこう魚に力いれているところが多い。今の物流システムを考えれば、長野も松本も海に隣接しているに等しい距離だとも思うのだけれど(あえていうなら、松本の方が遠い!)こういうところに、お土地柄というのが出るのだなぁなどと、勝手におもしろがっていたりもするのです。

2006年11月29日 (水)

おーい

Img_7027_1280  工藤ノリコさんのピヨピヨスーパーマーケット という絵本があります。ひよこがスーパーにいって、いろんな買い物をするほほえましいおはなしなんだけれど、彼女が描く絵にかぎらず、シンボライズされたちっちゃい鳥のくちばしって、どこかかわいい。

 そんなわけで、今日は能生の道の駅、マリンドリーム能生のとなりにある奇岩、「とっとこ岩」を1枚。海に向かってたたずんでいるニワトリに似ていることから名付けられたというこの岩。新潟県の西の方では、ニワトリのことをとっとこと言うので、とっとこ岩。そういえば、隣の上越市には、烏骨鶏のエキス満載という「とっとこぱん」があって、春の観桜会の出店では「なんだなんだ?」ってのぞき込む他県の人がいっぱいいたりもします。

 それにしても、あらためてアップで見たこの口。なんだかめいっぱいぴよぴよと広げている感じがかわいい。

 遠くにいる船にせいいっぱい呼びかけているようです。

<この記事の「ピヨピヨスーパーマーケット」は、アフィリエイトを含む楽天ブックスへのリンクになっています。>

2006年11月28日 (火)

つぶつぶきらきら

Img_70671  いくらおろし。忘年会だったの?・・・って話ではなくて、今日のいくらの醤油漬けは、実は自家製なのです。きれいにできたので、記念写真。

 10年以上前から、あちこちの川では「鮭の戻ってくる川にしよう」と、稚魚の放流をいっしょうけんめいやるようになりました。そのおかげで、うちの近所でも、名立川や能生川などで、今頃の季節になると鮭のつかみどり大会などがある、鮭祭りが開かれます。今日の鮭は、ウチから徒歩圏の小さな川、田海川で獲れたもの。母の友達が届けてくれました。

 せっかくだから、イクラ漬けてみようという話になって、日曜日に奮闘。昨晩あたりから、食べています。

 年越し魚はブリ?鮭?という話も、先日のJRやNTTの東西みたいなもので、このあたりははっきり決まっていない感じで、ブリも鮭も食べるのだけれど、その鮭は、海で獲れたものが珍重されています。いっしょうけんめい鮭がかえってくるようにっていいながらも、実は川に戻ってきた鮭はもう力尽きていておいしくない。確かに、それはホントですから。

 でも、せっかく帰ってきてくれたんだもの、おいしく食べなきゃ、申し訳ない。そんなわけで、身の方はそぼろにして、毎朝のご飯で活躍しています。かえって、海外サーモンのフレークに慣れた口には、あぶらっぽくなくさっぱりして、おいしく感じたりしてね。

 さて、くだんの田海川、ちっちゃい川なのだけれど、金沢大学のどこかの研究室が、関西圏の言葉の影響がここより東では見られないという、境界線になっているという調査結果を発表したことがあったなんておぼえがあります。なんだか、ホントに境界線の町なんだなぁと、あらためて思うわが町なのです。

2006年11月27日 (月)

空を、すべる

Img_7016  あんまり天気がいいので、そらをぼーっと見上げていたら、気持ちよさそうに、鳥が飛んでいきました。ずいぶん高かったし、そうじゃなくても、カラスとスズメくらいしかわからない僕には種類はわからないんですが。

 空を飛んでみたいという気持ちは、小さい頃から何度か持ったけれど、ばたばたとはばたく鳥には、なぜだかあまりあこがれませんでした。いや、憧れないというと、嘘になってしまうのだけれど、あまり、気持ちよさそうに見えなくて。いわば「生活の『飛び』」ってやつでしょうか。

 でも、グライダーのように空を滑空する連中のことは、いつもいつもうらやましかった。なにせ、本当に気持ちよさそうで。

 雲一つない青い空の高いたかいところを、すうっと風にのってすべっていく。

 連中には連中の苦しさも、悩みもきっとあるのだろうけれど、あんな風に空をすべることができたら、きっと僕のしんどさがいくらかか軽くなるのだろうな。その分、連中は僕ら人間のように、いつでも食べられて、暖かい部屋で眠ることができる生活を、脳天気だと思うのだもしれないけれどね。

 でも、やっぱり思う。空を、すぅっと。一度、すべるように飛んでみたいな、と。

2006年11月26日 (日)

たいようがいっぱい

Img_70101_1280  昨日はひさしぶりにとてもいい天気。冬の日差しは太陽が低いこともあって、案外と攻撃的だったりもするのですが、その斜光線がきれいにふりそそぐと、まさに、太陽があふれているような雰囲気になったりもします。

 庭のブルーベリーも、だいぶ紅葉して、あとは葉が落ちるのを待つばかり。4年ほど前に3本だけ植えた木は、ひょろっとしたまま。もともと灌木なので、あまり枝は太くならないのだけれど、根も深くはらず、まわりに広がるタイプなので、確保してある場所の真ん中に、「ダンナ、すいませんね、場所ばっかりとっちまって」みたいな感じで鎮座しているのですが、そうすると、家族が余った場所に花なんか植えてしまったりなんかもして、かくして葉っぱの向こうには、黄色やオレンジの花が見える、そんな花壇だかブルーベリー畑(というには小さすぎるのですが)だか、よくわからない囲みが、コイツなのです。

 しかし、風がつよくなかったら、芝生に寝ころんでしまおうかとおもうくらい、いい陽気の一日でした。単に天気がいいっていう、それだけのことが、とてもうれしく感じられる。これも、だんだんと冬になっているってことなのだろうなぁ。

2006年11月25日 (土)

境界のまち

Img_7006_1200  我が町は、ヘンな町です。JRは西日本で、NTTは東日本。電気は東北電力。さらに、市内に50Hzと60Hzの場所が混在してます。

 元々が北陸扱いされたり信越のくくりだったり、中部だったり、時に「関東甲信越」なんて言って関東のゆるい仲間になったり、一時期の気象庁のサイトのように、南東北扱いだったりと、今ひとつ立ち位置のはっきりしない新潟県の中でも、とくにいろいろな境界線を持つのが、糸魚川というまちのようです。

 JRの西日本と東日本の境界は、日本海沿いを走る北陸本線ではおとなり上越市の直江津駅。松本方面へと走る大糸線でも、おとなり長野県小谷村の南小谷なのですが、架線を流れる電気は、糸魚川のだいたい真ん中あたりで、直流と交流の切り替えになります。

 昔は、このあたりで一度電気が消えたりしたのだけれど、今では古い各駅停車の車両くらいしか、消えなくなっちゃいました。そういえば、昔の地下鉄銀座線は、パンタグラフからではなくて、サードレールから電気を拾っていたから、カーブなどではよく電気が消えたりしたなんていいます。車内がくらくなって、小さい非常電源だけついている数秒間。なんだか、そんな雰囲気がまだ味わえる、数少ない場所なのかもしれないななんて思います。

 糸魚川からのびる太平洋側への線、フォッサマグナは、静岡に抜けているそうだけれど、静岡近辺にも、こんな「直流」「交流」って書いてある線路、あるんでしょうか。

2006年11月24日 (金)

もっと近くに

Img_6990  庭の四季咲きの桜が、また少し花をつけています。4月の桜のように、この木はすべてが桜色に染まるようなことはありません。陽気のいい時に、突然思い出したようにぽつんぽつんと花をつけて、「景気悪くてすいませんね。ま、こんなもんなんです」なんて感じで散っていく。ただ、「あ、咲いてる」って気づくことが、なんだかご褒美っぽい感じで、けっこう好きなのです。

 で、今日の我が家の台所。

 湯飲みに無造作に差してある、庭の四季咲き桜の小枝。木全体で見ると、「ぼちぼちでんねん」な花も、この枝だけ切り取ってきてみると、まるで満開みたい。

 クレンザーだの、キレイキレイだの、あらっただけでまだ拭いていない箸だの、急須だの、そういうものがある場所に一緒にある、雑然とした飾りとしての花。

 でも、それは確かに、あのご褒美を、もっとちかくにたぐりよせる、そんな一手間なのでした。

 がんばってしおれないで、何日か生きながらえてくれよ(笑)。

2006年11月23日 (木)

きょとん

Img_70002  車を止めさせてもらっている場所は、はしっこにちょうど止まるのにちょうどいい木があったり、いろいろ隠れ場所があったりと連中にはすごしやすいらしく、朝は、スズメがたくさんあつまっています。

 とはいえ、都会のカラスのように、手が届くくらい近くまでいってものうのうとゴミ箱をあさり、さらにカァと叫んでこちらを威嚇するような強者は田舎にはいないので、僕が車に近づくと、すぐにちょっとだけ逃げて、様子をうかがってます。

 コイツも、お隣の小屋の上に待避して、「あの枝に、もどりたいんだけどなぁ」と様子伺いしているうちの一羽。

 しかし、スズメって、つぶらな瞳、してますねぇ。寝不足で車に乗り込む出勤時に、自分はまちがいなくこんな目はしていないはずで、なんだかうらやましいやら、恥ずかしいやら。

 これくらい、きょとんとした目で、いろんなものに興味を持てる日々を過ごせると、きっと楽しいだろうなぁ。

2006年11月22日 (水)

朝から晴れると

Img_69981  なんとなく、楽しい。

 そんなわけで、今日の一枚は、陽が昇る直前の光景です。

 僕が住む町は日本海に面しています。だから、太陽は山から登り、海に沈む。この光景って、太平洋側の人にとっては、これからゴハンたべて、風呂に入って、ビールもう一本飲んでって、そんなことを思わせる光景なのかもしれないですね。

 陽が昇る直前、雲のいろがどんどん変わっていって、金色に輝いたりする。でも、天頂の方はもうすっかり青空。スズメが近所の四季咲きのサクラの枝でぴよぴよ鳴いてたりする。時間がぎゅっと凝縮された感じで、しかも、暮れていくのではなく、どんどん明るくなっていく、そんな朝焼けが、僕は大好きなのです。

 冬は、寝坊しても見られるし(笑)。
 さて、今日もはじまりです。

2006年11月21日 (火)

準備中

Img_6970_1200  先日の栗の木の横にあった、まだまだ固いちっちゃいつぼみ。例によって、なんの花のものなのかは全然わからなかったのだけど、あとで人に見せたら「薔薇だね」とのこと。

 そうか、わかるひとがみると、つぼみでも花がわかっちゃうんだ・・・って、そりゃそうだよってまた笑われてしまいました。

 これから冬に向かう寒い外で、でも、色をしっかりためこんだ握りこぶし。この日はちょっとあたたかい日だったこともあって、日だまりの中にたたずむコイツは、ずいぶんとぬくぬくした感じでした。

 色といえば、最近とみに紅葉してきた町中の桜の木が、夕方のコバルト色の空の中では、ときどき夜桜のピンクに見えるときがあります。そういえば、桜を草木染めに使うときは、花が開く直前の樹皮を使うという話が、大岡信さんの随筆、「言葉の力」で紹介されていたのを思い出しました。なんに載っていたんだろうと思って検索してみたら、国語の教科書!。意外なところで読んだものが、記憶に残ってるものだなぁと、あらためて感心。そして、町中のコイツらも、木肌の中に、来春の色をすこしずつ貯めているのかもしれないな、なんて思ったりもするのです。

 この随筆、なにか収録されている本がないかどうか探しているのですが、なかなかみつかりません。教科書への書き下ろしなんでしょうか。著作権絡みのことがあるので掲載先は紹介しませんが、あちこちのウェブサイトやブログに文章の内容が載せられているようです。さがしてみてください。

2006年11月20日 (月)

クール・ビューティ

Img_69742  日曜日は今ひとつの天気。近所でフリーマーケットがあったのでのぞくも収穫なく、帰ってきて手近なところでということで、玄関にあった鉢を1枚撮ってみました。

 「この花、きれいだよね。なんていうの?」って家人に聞いたら、あきれたような顔で「シクラメン」とのこと。そうか、これがあの有名な「シクラメンのかほり」のシクラメンか。長年玄関においてあったり、あちこちで見かけたりしながらも、全然おぼえてなかったぞ。

 ふと、清水義範の小説、『花の名前』 を思い出しました。人がどうすれちがっているか。その象徴としての、花。別に、これは花じゃなくても、鳥の名前でも、ドラマや映画でも、読んだ本でもいいんだけれど、一緒に時間を過ごした日とが、同じものにばかり興味を持ち、覚えているわけではないということを、ちょっとした仕掛けで伝える短編。もう一度読みたいなと思って探してみるものの、本棚から出てこない。

 まぁ、きれいだなって気持ちだけ残っていれば、その名前なんて、覚えてなくてもいいのだけれど、などと言い訳してみたりしています。

 もっとも、日本語はけっこう豊かなもので、色の名前とかはすさまじく多い。夕焼けの微妙な色のうつりかわりを言い表す古式ゆかしい色の名前があったりすると、あぁ、こういうことも覚えたいなと思ってしまうのだけれど。

 そんなこんなで、今週もはじまりです。みなさん、がんばりましょう。

 この記事の「花の名前」は、この短編が収録されている「日本語の乱れ」のAmazon.co.jpへのリンクになっています。

2006年11月19日 (日)

焼き芋は落ち葉

Img_6967  でやるのがいいなぁと思う。思うんだけれど、なかなかそんな機会なんてないし、さらには落ち葉を集めて燃やすのも「野焼き」なんて言われて、怒られるようにもなってしまった。そんなことで出るダイオキシンやCO2なんかより、よっぽどたくさんこまったもの出してるようなもの、いくらでもあるだろうに・・・なんてうそぶくより先に、こういったものは「誰とやるか」つまり「誰がつきあってくれるか」の方が、できない理由なのかもしれないななんて思ったりもします。

 なにせ、落ち葉の焼き芋は、みんなでわいわいやるもの。それだけの頭数、この手の酔狂につきあってくれるってのは、なかなかないもんなぁ。

 そんなわけで、コドモが幼稚園からもらってきたお手紙「天気のいいひに焼き芋をやります。ひとり1本さつまいももたせて下さい」と、それから数日後の四歳児のめいっぱいの自慢(ぱぱのは、ないよー)が、本気でうらやましかったりする今日この頃なのです。

 写真は、インフルエンザの予防接種にでかけた医院の駐車場横の栗の木のところで。連れて行くときには泣き叫んで床にしがみつき、ぜったいここを動かないぞという自己主張。だまくらかして連れて行ったあとも、いざ注射針を見たらまた絶叫。なのに、終わったあとはなんだかさっきまでのことはなかったことにしたように、栗の木を見上げて、まだ落ちてない数少ないいがをさがして大喜び。

 そして、幼稚園からは、またもお手紙。「前回好評だったので、また近いうちに焼き芋をやります。さつまいも1本持たせて下さい」。うーん、うらやましい!。

2006年11月18日 (土)

そろそろはじまるか

Img_6963  職場から戻る途中、電飾がきれいな家を見つけました。そのまま写すのもナンなので、ちょっと細工して一枚。

 クリスマスっぽい電飾でウチを飾る人、だんだん増えてきました。ここんちは毎年やってくれるなっていうところをおぼえておいて、夜に車でまわってみたりすると、コドモも大喜びしたりします。今日のココは、去年まではやってなかったはずなので、今年デビューのところなのかも。しかも、かなりはやくからはじめているぶん、とても目立ってます。

 クリスマス。僕はさすがに田舎の子だったので、クリスチャン的なこととは全然無縁に、ただただ「ケーキがたべられて、なにかもらえる」ことを楽しむイベントだったのだけれど、この時期のわくわく感は、いまだにおぼえています。

 ヒノキヤやおおせ(市外の方、ごめんなさい。糸魚川市内のおもちゃ屋さんです)の新聞折り込みの広告がはいってくると、それを宝物のようにしまっておいて、「僕はこれがほしい」「やっぱり、これにしよう」と、いっしょうけんめい思い悩んで、それをいかにして「サンタさん」に伝えようか、悩む。やっぱり、コドモって、脳天気で無邪気な方が、ずっと幸せなんだろうななんて、今思い返しても、思う。そして、僕はランドセルがだいぶくたびれてくるまでは、外見はともかく、無邪気なコドモだった・・・ような気がします。

 ウチの子はまだ小さいから「○○がほしい」からって、自分でカタログをもらってきてずっと悩んでいるなんてことはありません。でも、コンビニやスーパーでケーキの予約チラシをもらってきては、「どのケーキにしよう」って一生懸命なやんでます。チラシ1枚で、ものすごくたくさん悩めて、しかも、楽しめる。きっと、それは、人生でも一番のゼイタクの一つだと思うぞ。

 そんなこんなで、だんだんとまちがクリスマスの顔になりはじめるのが、楽しみな僕なのです。

2006年11月17日 (金)

生える

Img_6951  自分が今、車をとめさせてもらっている場所は、昔は秋になると刈った稲をたばねて天日に干す、はさ場でした。それが、稲をはさがけしないようになったことで、そのお宅のおばあちゃんが半分くらい畑にして野菜作りをされるようになって、残りの半分に、自分や近所の人が、車を止めさせてもらっています。

 最近は体調が思わしくないのか、ここしばらく、野菜作りはされていないようで、そうなると、どこからもなく種がやってきて、いろいろな草が生え始めます。

 今の時期だと、定番は、時に毒々しいくらいに黄色い花を咲かせるセイタカアワダチソウだったりするのでしょうが、ここはまだ、それほど彼らの毒牙にかかることなく、それなりにおとなしげな植物たちが茂っています。

 この間、朝出勤しようとして、ふと目にとまったのが、この赤い植物。いつから生えてたっけ?。なんだか記憶にないのだけれど、雨上がりの朝、コイツだけが妙に、「ワシ、いますぜぃ、ダンナ」って感じで話しかけてきている感じだったので、ついつい、一枚。

 以前読んだエッセイで、プランターにそこそこ栄養のある土だけいれてベランダに放っておいて、何年もかけてその変化を見ていくのがおもしろいなんて話を読んだことがあったのを思い出しました。鳥が来たり、人がくっつけてはこんできたり。誰が植えたわけでもなく、いろんなタネがやってきて、相性よかったり、悪かったりしながら、あたらしい状況をつくっていく。

 そういえば、以前はうっそうとした森っぽい雰囲気さえ持っていたのに、H7の水害ですっかり流されてただの石ころ島になってしまった姫川河口近くの中州たちも、いつのまにか草だけじゃなく、木も茂りはじめています。かつてたくさんあったグミの木も、復活しているよう。そっちも、今度じっくり撮影してみたいなと思っています。そろそろ寒い季節だけれど、こういう時期に突然晴れてぽかぽかしたりすると、散歩にはとてもいい気持ちよさなので。

 週末、晴れないかな。

2006年11月16日 (木)

干す!

Img_6960  そういえば、僕が小さい頃、秋の遊びの定番は、刈り取った稲を干してあるはさ場を秘密基地に見立てて、いろんながらくたを持ち込んで遊ぶことでした。稲の天日干しは、場所によってやりかたが違うみたいで、ウチのあたりは、何段にもして、壁のようにするのだけど、それがかくれがとしては、ちょうどいいわけで。

 コンバインの登場とともに、稲の天日干しはすっかり減ってしまって、昔は秋になればあちこちにあった秘密基地予定地も、すっかり見かけなくなってしまいました。おかげで、今車を置かせてもらっている場所が借りられているのだけれど(感謝)。

 そして、稲を干す季節が終わると、そのあとの大物はといえば、大根。タクアンを漬けるために、大根を何本かしばって、稲の時と同じように、干していくわけです。

 ウチも、昔は漬けてました。それも、200本とか!。もちろん売るわけではなくて、自家用で。ウチで漬けたタクアンは、糠に柿の皮のほんのりした甘さと、茄子の葉で少し加えた色。だから、はじめて買ったタクアンを食べたときに(そう、中学校に入るくらいまで、タクアンって、買ったことなかったのです)、あまりの甘さにびっくりしたっけ。干したタクアンは、より柔らかくするために、みんなで手で揉んでから、つけ込み。この揉む作業はまだ小学生だった僕や弟もかりだされて、みんなで半日かけてやったっけ。農家じゃないウチにして、唯一の「一家の農作業」みたいなものだったのかもしれません。

 今は、もう干してある大根も売っているので、家で漬ける人でも、干す人は少なくなりました。そもそも、冬でも野菜がいつでも買えるようになった今、年の暮れに「越冬野菜」を買ったり、大量に漬け物を仕込んだりといったことも、不要になったのかもしれない。

 でも、やっぱり、家の味がいいから、干す人って、いるんですよね。写真は、ご近所の車庫の上の手すりの様子。なんだか、ちょっとうらやましくなってしまいました。

 それにしても。

 別に、「お年寄り」でもなんでもない僕が、それでもなお「越冬野菜」とか、冬に野菜が買いにくくなるとか、そういう記憶をちゃんと持っているあたり、あまりかわったという自覚症状のないここ20年くらいも、けっこう変化って、あるんですね。書いていて、自分にびっくりしてしまった、僕なのでありました。

2006年11月15日 (水)

透明な片足

Img_6955  普段はスズメかカラスしかとまっていない電線に、最近いろいろな鳥がとまるようになってきて、楽しいです。これも、渡り鳥なのかなぁなどと、鳥のことを全然しらない僕は、あいかわらず種類を調べもせずに、考えていたりします。

 今日も、駐車場から職場へと歩く道すがら、白いおおきな鳥が電線にとまっているのを見つけて、一枚。

 その時は気づかなかったのだけれど、あとで見てみると、どうみても足が一本しかない。この写真だけじゃなくて、反対方向から撮ったものも、何枚か見比べてみても、やっぱりない。

 調べてみると、片足でとまる野鳥というのは、実はありふれた存在なのだそうです。なにかの理由で足を一本失って、でもちゃんと暮らしている連中。なかなか逞しいじゃねぇか。なんだか、知らなかったこういうことを知るのって、勇気がもらえる感じで、とても、うれしい。

 で、話はもどって今日の「彼」。違うアングルの写真なんかを見てみても、片足だからっていうバランスで立ってない。二本足でしっかり電線をつかんでいる、その片方がたまたま透明になっているかのような、見事なスタイル。きっと、すごく強い脚力なんだろうな。

 願わくば、この片足が失われた理由が、人間のせいではなく、「ごくありふれた」日常の生存競争の結果であってくれればなどと、虫のいいことを思ってしまった僕なのでありました。

2006年11月14日 (火)

降ったり止んだり

Img_6953  週間予報によると、今週はずっと雨。月曜の朝は星が降ってきそうな空だったのに、今日はもう雨模様なのです。

 ただ、こういう降ったり止んだりの日は、雲の顔がおもしろい。全天曇り空なら、ただただ一面ねずみ色なだけだけれど、こういう日は、雲が妙に立体感を持っていて、あっちは青空、こっちは真っ暗なんて感じで、とてもおもしろい。さらに、上空に風があったりすると、どんどんながされてかたちが変わっていったりしてね。

 これからの季節、こういう天気が増えていくけれど、こういう日は、虹が出やすいというのは、実は隠れた楽しみ。

 夏の強い日差しでできる、強い強い色の虹は、でも縦の太い切れっ端の虹になることが多い。

 だけど、この時期に雨が急に止んだあと、差してきた陽を背にして空を見ていると出会うことができる冬の虹は、太陽が低いから、なだらかに、大きなアーチを描いて、ちゃんとはしからはしまでの、完全な形で登場してくれる。

 鉛色の空に控えめにあらわれる連中のきれいな一枚をねらうのが、冬の楽しみの一つになるかもしれません。

2006年11月13日 (月)

初雪の日

Img_6947  昨日、高速道路を上越方面へと走っていたら、突然ばちばちと音をたてて白いものが。初雪というより、あられのようなものだったのだけど、急に路面が白くなってしまいました。そして、前の車がハザードランプ。なんだろなと思っていたら、ぐしゃっと潰れた車と、はずれて転がったバンパー。ぞっとする一瞬でした。

 雪道の運転は毎年やっているから、慣れているはず。でも、シーズンはじめはどうしても、あの感覚がもどってくるまで時間がかかるから、路面がうっすら白い時に急ブレーキ踏んで思ったより滑ってどきっとしたり、下り坂の圧雪で止まれずに交差点直前でくるんと半回転したり、一つ間違えると事故につながりそうなことを何回かやってしまう。ブレーキに入るタイミング自体、変えないといけないわけで、注意しなくちゃ。こう思い直すのも、一種の冬支度。

 さて、今日はうってかわって青空。レンガ車庫の横を通りかかったら、中には鉄道ファンなら泣いて喜びそうな除雪車が2台。本格的な冬を前にして、整備中なんですね。これもまた、冬支度。

 本格的な冬は、もう少し待ってほしいのだけれど。

2006年11月12日 (日)

つづいているということの安心感

Img_6924  理系の学者さんの話を聞くのが、好きです。もちろん、なに言ってるかわけわからないような、日本語能力の欠如した人は別ですが、話の上手な学者さんというのは、我々なら、ふつうに「これって、こうなんだよなぁ」という皮膚感覚的な話題で終わってしまうものに、なにかテクニカルなリクツをくっつけて説明してくれる。やっぱり、学者さんというのは、「なぜそうなるのか」をきちんと説明できるということが研究でもあるわけで、(時にはそれが、難しい言葉で単に煙に巻くだけなこともあるけれど)、やっぱり、違うなぁと。

 昨日、11/11は、ヒスイ王国館で、「赤れんがフォーラム」なるイベントがありました。藤森照信さんの講演が主体のこのイベント、演壇のところに椅子をおいて、水ものまずに時折頬杖などつきながら、この先生、話すこと話すこと。

 そもそも、明治維新からの時代変化とともに、古い建物がどのようなニーズから保存されようとしてきたのかを説明しながら、だんだんと時代が下るにしたがって、「なぜこの建物を保存したいのか」という理由付けがかわってきたことについてお話。

 そして、今の時代は、私が大切に思ってきたこの建物を喪うのが辛いというような、ごくごく私的な思いから、建物を保存したいという活動をする人たちが出てきたということ。こういったことを思う人は今までもいたけれど、それを胸の中にしまい込まずに、きちんと人に対して伝え、動く人が出てきたということ。それにはじめて遭遇したときは、驚いたということまで、話をされます。

 ただ、そこで終わらないのが、学者さんのお話。
 なぜ、今までずっとあったものがなくなると、悲しくなるのか。それは、昔からずっと目にしてきた風景というのは、そのころから今に至るまでの時間の連続性を自分自身に認識させる機能があるからではないか。夜寝て、朝起きたとき、昨日の続きなんだということがきちんと認識できるのは、回りの風景が変わっていないから。それと同じように、回りの風景がかわらないということが、自分が生きていく中で、過去から現在、そして未来に続く時間の中で、自分自身の存在の確かさを補強するための、根拠になっている。それが、単に「思い」というものだけではなく、脳の機能として、回りの(かわらない)風景から、そういうものを感じるというものがあるのではないか。

 懐かしさを感じるという、人間だけが持つ脳の機能は、そのまま、自らの存在意義や自己確立のための根拠の一つ。だから、ずっと大切にしてきた風景が突然喪われるということに対して、心が痛むのも、自らの存在意義や自己確立を脅かされるような、ある種「脳へのストレス」への、自己防御本能なのかもしれないな。そんなことを思いながら、先生のお話を聞いていた僕なのでした。

 いやはや、うまく説明できないのがもどかしいです。

 ほぼ2時間しゃべりっぱなしで、さいごにゴクンと一回だけ水を飲み干した藤森先生。また、機会があれば、ぜひ糸魚川へ。

 

2006年11月11日 (土)

今日は雨が降っているので...

Img_6862_1000  気持ちよく晴れた写真を。

 海の方から美山方面へとJRの線路を越えていく橋の上から、糸魚川駅を撮った写真を引っ張り出してきました。

 糸魚川駅って、まがりなりにも複数の路線が乗り入れられた「ターミナル駅」なんですよね。あらためて、こうやって上から眺めてみると、なんだかちっちゃい町のちっちゃい駅だとは思えないくらい、たくさんの線路がやってきていて、なんだか不思議な感じです。

 画面左には、今日「赤れんがフォーラム」が開催される、いまや風前の灯火?の機関検修庫も。そして、この後ろには、今やなかなか見かけることがなくなった、転車台がひっそりと残っています。

 転車台がある場所というのは、線路が行き止まりだった場所。かつての鉄道は、今の電車のように、前にも後ろにも進める車は走っていなかったんですね。だから、方向をかえるために、一度ここへはいって、台をくるりと180度回転させてから出て行く、そんな施設が必要だった。

 近所では、他にも小滝駅にあると聞いたことがあります。路線の終点というのは、大都市か、または、最果ての地にあるもの。糸魚川は、日本海沿いを旅する人の足を止める難所、親不知を抱えていますから、その先に鉄道を敷くのが大変だった時期があるのかな。でも、そういう場所があるからこそ、「ターミナル駅」になることができたのかもしれません。

 ターミナル駅というのは、人が交錯して出会う場所。知らない人に出会って、その人がおもしろいことをやったり、かわった話をしてくれたりすると、いろいろインスパイアされて楽しい。だから、ターミナル駅みたいな「なにか」をたくさん見つけられると、田舎が退屈だなんてことは、言わなくていいのかな。そんなふうに思うのです。

 さて、赤れんがフォーラム。糸魚川会場は本日14:00からです。ぜひ、お時間のある方は、お出かけください。

2006年11月10日 (金)

夕焼け空のグラデーション

Img_6869_1000  少し前に瀬波温泉に行ったときに、宿の中の夕陽写真のギャラリーに、緑色の夕焼けのことが紹介されていました。いろいろな条件がそろったときに、ほんの一瞬だけ、海に沈む太陽が、緑色に輝く。そのギャラリーにも写真がなかったことで、いつか見たいと強く思ったのを思い出します。

 結局のところ、グリーンフラッシュとも呼ばれるこの現象には、いまだ出会えていませんが、最近は、夕陽が沈んだあとの空の色のうつりかわりがとても気になります。

 虹の7色は、大気という自然のプリズムが白い光をわけたもの。そして、虹と同じく、青い空が闇に包まれるまで、赤く夕焼けた後の色の移り変わりもまた、7色のグラデーションになっている。だから、写真にはあまりきれいに出ていませんが、赤い夕焼けと群青の間には、緑色の空も、確かにあるのです。

 この空の色を見ながら、いつか、グリーンフラッシュにも出会ってみたいなと、そんなことを考える、夕暮れ時なのです。

2006年11月 9日 (木)

バルタン星人?

Img_6784  こどもとよく遊んでいる、近所の臨海公園の松に、ちょっとおもしろい感じの部分を見つけたので、Lensbaby というちょっとかわったレンズで撮ってみました。

 元々、広い砂浜だったらしい須沢の海岸周辺は、田沢小学校や福祉センターの海側など、いろんな場所に防風林の名残があります。公園の芝生のひろっぱのはしっこにぽつんと立っているこの木は、遊び疲れた時水筒のお茶を飲む、格好の休憩場所。ちっちゃな木陰に入り込んで、のほほんとするのです。

 この木、ちょうどいいくらいの太さと曲がり方なせいか、時々小学生が上っています。今の子だって、木登りとかするんだなぁなんて感慨にふけりながら、近くであんまり手を貸さないように、でも、おりられなくなったら手伝ってやろうかななんて思いながら見ています。ウチの子が上るようになるのは、もちょっと先かも。でも、大きな子が上っているのを見ると自分ものぼりたいらしくて、抱き上げて枝にのせてやったりします。

 でも、こんなチクチクで痛い木に登らなくても・・・なんても思うのだけれど、秘密基地を求める気持ちって、そういえばあのころあったなぁなんて、懐かしくも思い出したりするのです。

<この記事のLensBabyのリンクは、アフィリエイトを含む楽天市場へのリンクです。>

2006年11月 8日 (水)

ほんとうに、いいのかな?

Img_6666_1000  新鉄のあたりから駅の方を見ると、線路沿いにずうっと空き地が広がった先に、ぽつんと、赤レンガ作りの車庫があります。住宅移転がどんどんとすすみ、町に定規で線をひいたように、細長い空き地ができてきて、あぁ、新幹線ももうすぐなんだなぁと、あらためて感じる場所のひとつです。

 このレンガ車庫、相当に古く、大正のはじめのもの。当時欧風のレンガ造りは最先端をゆく流行で、同時期に建てられた東京駅など、他にも赤レンガ作りの歴史的構造物はたくさんあります。

 さて、話は、このレンガ車庫のこと。 

 この「細長い空き地」の向こうに見えるということは、即ち、新幹線開通までに、空き地にする必要がある場所に建っているということでもあり、取り壊されることになります。
 正直なところ、何十億円もの税金を使って、古い建物は全てのこさなければいけないとは、僕は思いません。すべての「古いもの」には、誰かしらの思い入れがあり、他の人にとってはゴミや廃墟であったとしてもなお、その人にとっては意味がある。でも、そういうものをすべて残していたら、生きていくことはできませんから。
 ただ、なにを残して、なにを残念だけれど見送るのか。それをきちんと考えて、決めたいという思いは、やはりあるのです。

 レンガ車庫の保存活動は、細々と続けられています。一時期はずいぶんとたくさんの署名も集まり、市への保存の陳情がおこなわれました。保存活動を求める請願は、市議会で採択され、形式上は、保存のための努力というのは、「民意」として承認されたことにさえなっています。
 しかし、実際のところ、「なんとか残したい」という当局の七転八倒の動きは、全然見えてきません。多くの人に対して、残したいかどうか尋ねたわけでもなければ、新幹線を作る人たちに対して、この建物を残した形での建設をしたいけどなにか策はないかと尋ねた様子もない。

 正直なところ、他に優先課題がたくさんあることはわかります。お金をつかいたい事業は、もっとたくさん他にある。でも、だからといって、「なにもしない」(にひとしい状態の)まま、ただ時間切れを待つような形って、ほんとうにいいのかな?。そう思うのです。

 これは、ものすごく素朴な疑問なのです。

 みんなにとって大事な、その町の財産がある。これを処分するときに、みんなが「いいよ」って言ったつもりがないのに、いつのまにか、処分が決まったことになっている。そういう方法そのものへの「いいのかな?」。

 今まで何度となく、そういうことってごくごく普通に繰り返されてきたけれど、それじゃ、僕等はこの町にとって、ただの「お客さん」でしかない。

 そういうことについても、思うのです。「ほんとうに、いいのかな?」。

 とりあえず、自分のこととして、きちんと考えてみたい。
 その機会として、今週の土曜日に「赤れんがフォーラム」がヒスイ王国館で開催されます。おなじようなことが進行中の柏崎との同時開催。
 もしよろしければ、お出かけください。
 詳しくは、 http://www.e-hisui.com まで。

 

 

2006年11月 7日 (火)

あたらしいリュック

 Img_6745_2最近、新しいリュックを買いました。
 日頃仕事に必要な、ノートパソコンと付属品一式に加え、デジタル一眼レフカメラが1台と、レンズ、ストロボといったもの少々が一緒に持ち歩ける、それほど大きくないリュック。

 写真を撮りはじめて思うことは「あぁ、今日はカメラを持ってこなかった」というがっかりによく出会うくらい、残しておきたいと思う風景に出会う、そんなことが案外毎日たくさんあったのだなと思うこと。

 海に沈む夕陽がきれいだったり、朝の散歩の道すがら眺める花が朝露で光っていたり、古くさい雁木道にあたる光が妙にまぶしかったり。なんだ、案外この町、いいじゃん。そんなことを再認識できたのは、カメラを持ち歩くようになったからなのかもしれません。

 長年あこがれていただけで、実際に撮っていなかったので、ヘタクソですが、写真とあわせて、この町のこと、いろいろ書いていきたいと思います。

 不定期掲載ですが、よろしくお願いします。

トップページ | 2006年12月 »